那須資重
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那須 資重(なす すけしげ、生没年不詳)は室町時代の人物。下野の那須氏の一族。沢村氏、のち下那須氏当主。那須資氏の子。那須資之の弟。妻は佐竹義盛の娘。那須資持の父。次郎、沢村五郎。沢村城、のち烏山城城主。
初め沢村氏を継承したが、応永年間に当主である兄の資之に疎まれ攻撃を受け沢村城を退去、稲積城に移った後、応永25年(1418年)、烏山城を築きそこを居城とした。上杉禅秀の乱の際は兄の資之が上杉禅秀に味方する一方で、鎌倉公方足利持氏に味方し、持氏の勝利後はその後ろ盾を得て結果的に那須氏の分裂を恒常的なものにした。
地元では資之が資重の器量が優れていたことに嫉妬したためこれを排斥した、また沢村城を脱出した資重が烏の導きにより烏山の地に城を築いたという伝承がある。
那須 資重(なす すけしげ、慶長14年(1609年) - 寛永19年7月25日(1642年8月20日))は江戸時代の大名。那須資景の子。妻は大関政増の娘(徳川家康の孫でもある)。美濃守。
寛永元年(1624年)、隠居した父の跡を継ぎ那須藩の二代藩主となったが、後継ぎのないまま同19年(1642年)に没し、那須氏は無嗣断絶となった。後に隠居の資景が所領の一部を継承し、家名を再興することが許されている。
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