週刊少年宝島
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「週刊少年宝島」(しゅうかんしょうねんたからじま)は、JICC出版局(現・宝島社)が1986年12月から1987年2月まで刊行していた週刊少年漫画雑誌である。
[編集] 概要
82年の週刊少年キング休刊以来、4誌体制となっていた週刊少年漫画誌市場の一角に食い込むべく創刊。他の後発の週刊少年誌が、月刊や隔週刊で創刊→軌道に乗ったところで週刊化、という手順を踏んでいたのに対し、「それでは先行4誌に追いつけない」として最初から週刊だった。創刊号から100万部発行という、相当に強気の姿勢で臨んだ。
しかし、やはり創刊早々から返本の山を築いた。JICC出版局としてもそれは計算済みで、この雑誌のために5億円もの予算を組んでおり、「毎号1000万円の赤字を出しても1年間は大丈夫」という読みだったらしい。だがこれは、大量の出荷・返本作業に追われる側の手間や労力は全く計算に入っていないという、出版社としては言語道断としか言いようの無い目論見であった。このため、小売店からは嫌われ、大手取次店からも「これ以上出し続けるなら、他も含めてJICCの雑誌は一切扱わない」と宣言され、しかも一部の取次店ではそれを実際に行動に移したほどであった。さらに、キヨスク等の駅売店では売られておらず、販売網の拡充も不充分であった。
1987年2月、わずか12号(3・4合併号があるため11冊)を出したのみで休刊。最終号にも「次号」の予告が掲載されており、休刊のお知らせはその片隅に小さく載っているのみで、編集サイドが想定していなかった突然の休刊劇だった事を伺わせた。小売店にも休刊の事実は満足に気付かれなかったようで、書店によっては、「次号」がいつまで経っても入荷されない事に気付く事が無かったがために休刊後数ヶ月間、棚の一角に置かれ続けているケースも見受けられた。
発行されている間、返本率が8割を切る事は一度も無く、週刊少年漫画誌の一角に食い込むどころか、逆に出版業界からJICC出版局の存在自体が白い目で見られるようになる、という結末に終わった。
その後も、「JICC出版局」という社名は忌み嫌われるようになり、当時はマイナー志向の超カルト的サブカルチャー雑誌だった『宝島』に因んだ「宝島社」と言う社名への変更を余儀無くされるまでになってしまう。週刊少年宝島は出版元の評判を地に落としたばかりでなく、結果として、「JICC出版局」と言うブランド自体をも消滅させてしまったのである。
この他にも、ゆくゆくは週刊となる構想を社内的に掲げていた少年漫画雑誌はいくつか存在する。しかし、実際にはこの雑誌の創廃刊以降20年弱もの間、週刊少年漫画雑誌市場への新規参入は全く無い。