赤木圭一郎
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赤木 圭一郎(あかぎ けいいちろう、1939年5月8日 - 1961年2月21日 )は、日本の映画俳優。本名、赤塚親弘(あかつか ちかひろ)。通称、トニー。
東京生まれ。栄光学園中学、神奈川県立鎌倉高等学校卒業、成城大学に入学(在学中他界)。
日活のアクション俳優として、“マイトガイ”小林旭、“タフガイ”石原裕次郎に続く「第三の男」と呼ばれた。
1958年、日活第4期ニューフェースとして日活へ入社。20本以上の無国籍アクション映画に続けて出演、主演した。
1961年2月14日、日活撮影所内でゴーカートを運転中、鉄扉に激突し、慈恵医大病院に緊急入院。 2月21日、前頭骨亀裂骨折に伴う硬膜下出血のため21歳の若さでこの世を去った。 死の報せを聞いた石原裕次郎は号泣したという。また死に顔を見た宍戸錠は「まるでルドルフ・ヴァレンティノのようだった」と言った。
演技はあまり上手でなかったともいわれるが、他者にはかえ難い「華・存在感」をもった、将来を嘱望されたスターだった。また良い意味で威張らず、気さくな性格からファンのみならず俳優・裏方のスタッフら”仲間内”の評判もよかった。赤木の事故・そして死は当時の日本の各方面に強く、深い衝撃と悲嘆をもたらし、市川雷蔵夭折後の大映がそうであったように、赤木の夭折がひいては日活衰退の遠因だったとも言えるだろう。早逝したことから、和製ジェームス・ディーンとも呼ばれる。
[編集] 出演
[編集] 映画
- 群集の中の太陽(1959年、日活)
- 狂った脱獄(1959年、日活)
- 拳銃0号(1959年、日活)
- 絞首台の下(1959年、日活)
- 街が眠る時(1959年、日活)
- 俺は淋しいんだ(1959年、日活)
- 若い傾斜(1959年、日活)
- ゆがんだ月(1959年、日活)
- 浮気の季節(1959年、日活)
- 素っ裸の年令(1959年、日活):初主演作品
- 清水の暴れん坊(1959年、日活):石原裕次郎と初共演
- 大学の暴れん坊(1959年、日活)
- 鉄火場の風(1960年、日活)
- 拳銃無頼帖シリーズ
- 拳銃無頼帖 抜き射ちの竜(1960年、日活)
- 拳銃無頼帖 電光石火の男(1960年、日活)
- 拳銃無頼帖 不敵に笑う男(1960年、日活)
- 拳銃無頼帖 明日なき男(1960年、日活)
- 打倒 ノック・ダウン(1960年、日活)
- 邪魔者は消せ(1960年、日活)
- 男の怒りをぶちまけろ(1960年、日活)
- 霧笛が俺を呼んでいる(1960年、日活)
- 海の情事に賭けろ(1960年、日活)
- 幌馬車は行く(1960年、日活)
- 錆びた鎖(1960年、日活)
- 俺の血が騒ぐ(1961年、日活)
- 紅の拳銃(1961年、日活)