赤尾清綱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
赤尾 清綱(あかお きよつな、永正11年(1514年) - 天正元年(1573年))は浅井氏の家臣。
海北氏や雨森氏と並ぶ「浅井三将」のひとりで、近江浅井家初代浅井亮政の頃から浅井家に仕え浅井家と興亡をともにした人物。当主からの信頼がとりわけ厚く、小谷城内の防衛の要所に赤尾曲輪と呼ばれる居館をもち、そこに在番していた。通常、家臣は城下に武家屋敷を持ちそこを居館とするものだが城内に居館を持つことを許されていたことから相当信頼のおける人物であったことが窺われる。亮政の活躍を目にしていただけに2代目久政の気弱さにほとほと落胆していたと言われ、浅井家重臣遠藤直経らとともに長政への家督委譲と久政の隠居を計画、久政が城を出た隙に小谷城を占拠し長政への家督委譲を認めさせた。武田信虎から家督を奪い取った武田晴信らの行動と似てはいるが、信虎が生涯躑躅ヶ崎館への帰還が叶わなかったのに対し、久政は長政や家臣らと和解しすぐに小谷城へ戻っている。長政が当主となった頃には老齢で合戦の表舞台に出ることはなかったが、軍目付的な存在として陣中に赴いていたという。亮政が六角氏との攻防により一時越前に退避、朝倉氏と同盟を結び再起を図ったという経緯から家中では朝倉寄りの立場を取りつづける。浅井家3代にわたって仕えてきた人物だけに朝倉との関係も非常に深かったのであろう。
1573年、織田信長の小谷城攻撃で捕虜となり斬首される。嫡子清冬の命は清綱のこれまでの働きと忠義に免じて信長直々に助命したといわれている。