諏訪頼忠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
諏訪 頼忠(すわ よりただ、天文5年(1536年) - 慶長11年8月11日(1606年9月13日))は諏訪満隣の子。諏訪頼豊の弟。
1542年、諏訪氏の当主である従兄の諏訪頼重が武田信玄に敗れて殺され、さらに1545年に父・満隣も信玄に殺されると、頼忠は諸国を流浪することとなったといわれているが、後に兄が武田信玄に仕えるようになると、頼忠も諏訪に帰郷して諏訪大社大祝として信玄に仕えた。
1582年、武田氏が滅亡した際に兄が戦死し、さらに同年6月に織田信長が死去すると、頼忠は信濃高島城に入って諏訪氏の家督を継ぎ、再起を図った。しかし、徳川家康の信濃平定軍に敗れ、家康に臣従し、諏訪郡を所領として安堵されることとなった。
1590年、家康が関東に移ると、頼忠もこれに従い、武蔵に所領を与えられた。1592年には、上野に所領を移される。この頃、頼忠は家督を子の諏訪頼水に譲った。1600年の関ヶ原の戦いでは、江戸城の留守居役を務めた。