覚鑁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
覚鑁(かくばん、嘉保2年6月17日(1095年7月21日) - 康治2年12月12日(1144年1月18日))は、平安時代後期に活躍した真言宗の高僧で、真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖(新義真言宗は、正確には覚鑁の死後80余年を経て僧正頼瑜(らいゆ)が大成したものであり、一般には頼瑜が同宗の開祖とする解釈であるが、頼瑜は覚鑁の学問体系を発展させ同宗を確立していったことから、覚鑁が新義真言宗の始祖であると言える)。諡号興教大師(こうぎょうだいし)。
平安時代後期の朝野に勃興していた念仏思潮を、真言教学においていかに捉えるかを理論化した。即ち、西方極楽教主阿弥陀如来とは、真言教主大日如来という普門総徳の尊から派生した別徳の尊であるとした。真言宗教典の中でも特に有名な密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげのもん)、空の思想を表した月輪観(がちりんかん)の編者として有名。
父は九州の肥前国(現・佐賀県)総追補使・伊佐平次兼元。13歳で得度・出家した覚鑁は、古式な真言宗の伝法の悉くを35歳の若さで灌頂し、弘法大師空海以来の才と称された。
36歳のとき覚鑁は真言宗総本山である高野山の現状に眼を止める。当時の高野山には、僧侶は食べる手段と割り切った信心の薄い下僧と、権力に眼を眩ませる上僧が蠢く有り様であり、真言宗が腐敗衰退した現状を嘆いた覚鑁は自ら宗派の建て直しに打って出る。
高野山金剛峯寺に大伝法院を建立し座主に就任したのを皮切りに、金剛峯寺座主にも兼ねて就任し事実上同山の主導権を制覇、真言宗の建て直しを図るが、この強硬策に当然に反発した上下の僧派閥は覚鑁と激しく対立、遂に1140年、覚鑁の自所であった金剛峯寺境内の密厳院を急襲してこれを焼き払ったうえ金剛峯寺追放という凶行に出る。
この際、覚鑁の命を狙った刺客が、密厳院本尊の不動明王像の背後に覚鑁が潜んでいると判断し同像を切りつけたところ、像から血が流れたのを見て驚愕して引き上げ、覚鑁は辛くも一命を取り留めたという、有名な「きりもみ不動」伝説が生まれた。
この凶行より前、覚鑁は権力の亡者と化した真言宗門徒の有り様を嘆き、密厳院において長期に渡る無言行を修し、直後に密厳院発露懺悔文を一気に書き上げる。堕落した僧界の現状を恥じる赤裸々な内容が壮絶な同経文は、「我皆相代わって悉く懺悔す、更にまたその報いを受けしめざれ」という贖罪の決意を明らかにした末文も相まって、現在も真言宗各派において宗教家の自覚を促し自戒する経文として広く唱えられる。
高野山を追われた覚鑁は、弟子一派と共に根来山(ねごろさん)に退いて根来寺を建立、大伝法院や密厳院を移し、真言宗の正しい有り方を説き独自の教義を展開する。
1143年覚鑁の死後、彼の弟子たちは高野山へ戻るも既に金剛峯寺との確執は深く、再び根来山に戻り頼瑜を中心として覚鑁の教学・解釈を基礎とした「新義真言宗」へと発展させていく。
後に根来山は豊臣秀吉との確執の末に討伐を受け壊滅、生き延びた一部の僧たちは奈良や京都へ逃れ長谷寺(豊山)や智積院(ちしゃくいん)において新義真言宗の教義を根付かせ、現在の新義真言宗(根来寺派)、真言宗豊山派、智山派の基礎となった。
江戸時代になりようやく新義真言宗は紀伊徳川家より復興の許しを得て根来寺と共に復興、覚鑁は生前の功績を評価され興教大師の諡号を贈られた。
[編集] 関連項目