西都原古墳群
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西都原古墳群 (さいとばるこふんぐん) とは、宮崎県のほぼ中央に位置する西都市の市街地西方に南北に走る、標高70m程度の洪積層の丘陵上に形成された日本最大の古墳群である。
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[編集] 概要
現在、高塚墳311基が現存し、その内訳は前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基であるが、他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されている。
大正元年(1912年)から大正6年にかけて日本で初めて本格的学術調査が行われた地としても有名である。調査は大正元年12月25日から翌年1月6日に第一次調査、同2年5月に第二次調査、同3年8月に第三次調査、同4年1月に第四次調査、同5年1月に第五次調査、同5年12月から翌年1月に第六次調査が実施された。
その後、昭和9年(1934年)に国の史跡に、昭和27年(1952年)に国の特別史跡に指定され、昭和41年(1966年)から昭和43年(1968年)にかけて、風土記の丘第1号として整備が進められた。
西都原古墳群は地形的に西都原台地上と、西都原台地と市街地との間に位置する中間台地上の二地域に区分でき、その中で更に11の集団に分けることができる。
[編集] 西都原台地上
第一集団・・・台地の東南部地帯。古墳群内で最大の群集地域。前方後円墳7基を含む計91基。
第二集団・・・台地の東側縁辺部に一列に形成。前方後円墳10基を含む計36基。
第三集団・・・台地の北部に形成。前方後円墳1基を含む計86基。
第四集団・・・台地上でも一段高い、丸山丘陵の東側裾部に築かれた男狭穂塚 ・女狭穂塚とその陪塚。
第五集団・・・台地のほぼ中央に位置する、古墳群内唯一の横穴式石室墓「鬼の窟古墳(206号墳)」と その周辺の三基。平成7年の調査で横穴墓も確認。
第六集団・・・台地の西側、寺原丘陵一帯に築かれた古墳。前方後円墳3基を含む計16基。
第七集団・・・寺原集落地域内の古墳。前方後円墳1基を含む計12基。ただし、この前方後円墳は道路によって切断されている。
[編集] 中間台地上
第八集団・・・堂ヶ島微高地・童子丸台地上一帯の円墳。
第九集団・・・宮崎県立妻高等学校及び日向国分寺のある諏訪地域の古墳。前方後円墳2基を含む計20基。
第十集団・・・三宅集落丘陵の上・下尾筋地域の古墳。前方後円墳5基を含む計18基。
第十一集団・・・三宅丘陵南部の沖積層である鳥子地域に築かれた古墳。前方後円墳1基を含む計4基。
[編集] 西都原台地上の主な古墳
男狭穂塚(おさほづか)
女狭穂塚(めさほづか)
13号墳
35号墳
56号墳
72号墳
81号墳
100号墳
169号墳
170号墳
171号墳
173号墳
姫塚(202号墳)
第一集団に含まれる前方後円墳で、墳長50.2m、前方部幅30.8m、前方部高さ5.25m、後円部径28.4m、後円部高さ6.0mを測る。その形状の美しさから姫塚(ひめづか)と呼ばれ、周囲には周湟が巡らされている。大正時代に発掘された30基のうちの一つで、直刀3本、刀子(とうす)1本、須恵器9個、ガラス製小玉、水晶製切子玉などが出土した。前方部の発達具合や大正年間の発掘の際の出土品から築造年代は6世紀初頭と考えられている。
鬼の窟古墳(206号墳)(おにのいわやこふん)
西都原古墳群内で唯一、内部主体に横穴式石室を採用している古墳である。鬼が一夜で造りあげたとする伝説が残ることが名の由来となっている。石室入り口付近に生えていた楠により石室崩壊の危機にあったため、解体修復作業が行われ、その際同時に発掘調査が実施された。石室内の水を排出するための暗渠の存在や土塁が完全に古墳を一周していたこと、追葬が行われていたことなどが明らかとなった。古墳の周囲に土塁を巡らしているのは中華人民共和国・朝鮮半島ではよく見られるが、国内では石舞台古墳が類似するのみで、関係が注目される。
265号墳