西光
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西光(さいこう 生年不詳 - 安元3年6月3日(1177年6月30日))は平安時代後期の僧。俗名は藤原師光。麻植為光の子で、藤原家成の養子。
藤原通憲(信西)の家来となり、左衛門尉に昇る。平治の乱で信西が死ぬと出家して後白河法皇に仕えた。
西光は藤原成親、俊寛、多田行綱らの平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の山荘での密議の首謀者となる。(鹿ケ谷の陰謀)
子の藤原師高と藤原師経が比叡山と紛争を起こし、比叡山大衆が強訴する騒ぎとなる。師高と師経は処罰されるが、西光が後白河法皇に讒訴して天台座主明雲の天台座主職を停止させ、拷問の上で伊豆国に流罪にさせた。明雲は配流の途中で衆徒に奪回され、西光は後白河法皇に厳罰を進言する。
1177年、比叡山との紛争の最中に、多田行綱が鹿ヶ谷の陰謀を平清盛に密告。西光は後白河法皇のもとに逃れようとするが捕縛される。
清盛は西光の顔を踏みつけ責めるが、西光は逆に平氏を罵った。怒った清盛は西光を拷問の末、五条西朱雀で斬首させた。