藤原師氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原師氏(ふじわら の もろうじ、延喜13年1月7日頃(913年2月20日頃)-天禄元年7月14日(970年8月23日))は、平安時代中期の公卿。関白藤原忠平の四男。母は源能有女昭子。藤原師輔・師尹は同母兄弟、藤原実頼は異母兄にあたる。桃園大納言と称されるが、これは師氏の邸宅名桃園第と極官に因む。また枇杷大納言とも称す。
延長6年(928年)正月、16歳の時に叙爵。翌延長7年、侍従に任じ、正三位大納言に至る。兄実頼・師輔、弟師尹が大臣まで栄進したのに対し、師氏の極官は大納言であり、天暦2年(948年)7歳年下の弟師尹が権中納言に任官されて以降は、常に師氏の方が官職が下位にあった。更に、康保4年(967年)には、師氏の甥伊尹(父は師輔)が権大納言に任官されたことによって、当時中納言であった師氏は、甥よりも官職が下位になった。このことから、師氏は官位昇進については不遇であったことが窺える。なお、『宇治拾遺物語』には、近衛大将任官の饗宴の2日前に歿したとあるが、『公卿補任』等の史料には、近衛大将任官の記載はない。『空也誄』に空也と二世の契りがあったこと、『空也誄』『古事談』等に、師氏薨去に際して、空也が閻魔大王に送る牒文を書いたと伝えている。また、『蜻蛉日記』には、師氏が宇治に別荘を有していたものの、歿後荒廃してしまったと記す。
和歌に優れ、『和歌色葉集』に名誉歌仙と記載され、『後撰和歌集』『新古今和歌集』等の勅撰集に11首入集されている。また自身で編んだ私家集『海人手古良(あまのてこら)集』がある。
目次 |
[編集] 系譜
- 父:藤原忠平
- 母:源昭子
- 室:靖子内親王(915-950、醍醐天皇皇女。母は源封子)
- 子:女子(師輔子藤原高光に嫁す)
- 室:高階惟明女
- 子:藤原親賢
- 室:源信明女
- 子:藤原保信
- 室
- 子:藤原近信
[編集] 官歴
※月日は旧暦。主に『公卿補任』の記載による。
年紀 | 事歴 |
---|---|
延長6年(928年) | 正月7日、叙爵。 |
延長7年(929年) | 9月23日、侍従。 |
延長8年(930年) | 9月23日、昇殿を聴す。 |
承平4年(934年) | 正月7日、従五位上(中宮の御給による)。閏正月29日、左近衛少将。 |
承平5年(935年) | 2月23日、近江権介を兼任。 |
承平7年(937年) | 正月27日、正五位下。 |
天慶2年(939年) | 正月7日、従四位下。2月5日 昇殿。 |
天慶3年(940年) | 3月25日、美濃守を兼任。左近衛少将元の如し。 |
天慶4年(941年) | 3月15日、蔵人頭(朱雀天皇近侍)。3月28日、左近衛中将に転任。 |
天慶6年(943年) | 正月7日、従四位上。 |
天慶7年(944年) | 4月9日、参議。 |
天慶8年(945年) | 3月28日、伊予守を兼任。 |
天暦2年(948年) | 正月30日、右衛門督を兼任。 |
天暦3年(949年) | 8月14日、父忠平薨去によって服解。10月2日、復任。 |
天暦4年(950年) | 正月7日、正四位下。 |
天暦5年(951年) | 正月30日、大和権守を兼任。 |
天暦9年(955年) | 2月7日、従三位に叙す。権中納言に任ず。右衛門督元の如し。 |
天徳元年(957年) | 4月25日、左衛門督に転任。 |
天徳4年(960年) | 8月22日、中納言に転任。左衛門督元の如し。 |
康保元年(964年) | 正月7日、正三位。 |
康保4年(967年) | 9月1日、春宮大夫を兼任。 |
安和元年(968年) | 正月13日、按察使を兼任。 |
安和2年(969年) | 2月27日、権大納言に任ず。左衛門督・春宮大夫・按察使元の如し。
11月11日、皇太子傅を兼任。 |
天禄年(970年) | 正月27日、大納言に転任。7月14日、薨去。春秋58歳。 |
[編集] 研究文献
- 山口博「藤原師氏と海人手子良」 『王朝歌壇の研究 村上冷泉円融朝篇』所収 桜楓社 昭和42年(1967年)
[編集] 関連リンク