花菱アチャコ
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花菱アチャコ(はなびし あちゃこ、1897年7月10日 - 1974年7月25日)は、大正昭和期の漫才師で俳優。本名藤木徳郎。福井県出身。
1913年に山田九州男(山田五十鈴の父)の一座に入り、千日前敷島倶楽部で初舞台を踏む。1914年、神戸の「鬼笑会」一座に入り、漫才に転向し、花菱アチャコを名乗る。
1925年、吉本興業に入社し、千歳屋今男とコンビを組む。1930年、当時吉本興業で総支配人の座にあった林正之助の勧めに従い、横山エンタツとコンビを組む。当時人気のあった東京六大学野球をネタにした『早慶戦』などの「しゃべくり漫才」で人気を博す。1934年、中耳炎にかかり、エンタツとのコンビを解消する。その後舞台では千歳屋今男とのコンビを復活させたが、映画では引き続きエンタツ・アチャコのコンビを継続した。一方で「アチャコ劇団」を旗揚げし、全国を巡業する。
第二次大戦終結後、吉本興業は一時演芸部門から撤退し全所属芸人との専属契約を解除するが、1939年の新興キネマによる吉本所属芸人の引き抜き騒動の際、アチャコは吉本から「(吉本はアチャコの)面倒を一生みる」と一札取っていたため、唯一の例外として吉本興業との専属契約継続を認められた。結局この契約はアチャコが亡くなるまで継続されることになる。
戦後間もない時期には、長谷川一夫の『銭形平次捕物帳』など、映画の時代劇等でバイプレーヤーとしても活躍している。
1952年に長沖一原作のラジオ番組『アチャコ青春手帖』が大ヒット作となり映画化された。後番組で、引き続き浪花千栄子と共演した『お父さんはお人好し』も人気を博し、これも映画化された。1959年に吉本興業が演芸部門を再開させると、アチャコは吉本の一枚看板として吉本バラエティの初期を支えた。テレビが日本の家庭に普及しつつあった高度成長期には、「滅茶苦茶でごじゃりまするがな」の台詞で一斉を風靡した。