色部安長
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色部安長(いろべ やすなが、寛文4年(1664年) - 享保15年7月30日(1741年8月30日))は米沢藩上杉家江戸家老。通称は又四郎(またしろう)。『忠臣蔵』の物語中で吉良上野介邸討ち入りの際に実父吉良上野介を助けるために出兵しようとする主君上杉綱憲を押しとどめる役などで出てくることが多い。
上杉家重臣長尾権四郎景光(侍頭)の次男として米沢城下に生まれたが、寛文六年(1666年)には同じく上杉家重臣の色部隼人清長の急死のためにその養子に入り、色部家の家督を継いだ。この色部家は桓武平氏の一つ秩父平氏の流れを組む本庄長門守泰長が下越後色部庄を鎌倉公方より賜り、色部氏を称したのにはじまる。戦国時代の勝長の代に上杉謙信に仕え、豊臣時代の光長は上杉景勝の会津120万石のうち長井郡金山城1万石を持った。しかし江戸時代になると関が原の戦いで西軍に属した責任を責められ、上杉家は30万石に減らされたため、家臣たちの家禄もすべて三分の一に減らされ、色部家は3330石となった。さらに寛文四年(1664年)に米沢藩は藩主上杉綱勝急死によって領地を30万0000石から15万0000石に減らされたため、家臣たちの家禄は半分にされ、色部家の領地はこのとき1666石となる。これが安長が受け継いだ家禄であった。
延宝8年(1680年)4月に藩主上杉綱憲が参勤交代で江戸へ行く際にお供してはじめて江戸へ入る。ときに又四郎25歳。以降、綱憲にお供して江戸と米沢を毎年のように行き来したが、元禄12年(1699年)1月6日、上杉家江戸家老に就任し、江戸在府となった。この時に妻子も米沢から江戸へ呼び寄せて、桜田の上杉家上屋敷に住ませている。江戸家老に就任した安長は窮迫する米沢藩財政の建て直しに苦心したが、特にその原因は藩主綱憲の実父吉良義央であった。浪費癖がある吉良義央は、吉良家の普請や買掛金(商人への未払い金)をすべて上杉家に支払わせた上、毎年6000石もの援助を要求したためである。この負担の大きさは、江戸勘定方須田右近が米沢の重臣に宛てた書状の中で「当方もやがて吉良家同然にならん」と嘆いているほどであった。
元禄15年(1702年)12月14日に吉良邸討ち入りがあるが、元禄赤穂事件を扱ったドラマや映画・小説などでは、この際に、実父吉良上野介を救うため出兵しようとする上杉綱憲を色部が諫めるというシーンが多い。これは大佛次郎の小説『赤穂浪士』で千坂高房が綱憲をとめるという場面があるのが原因なのだが、千坂がこの当時すでに病没しており、江戸家老ではなかったことが判明したため、最近ではかわりにこの頃江戸家老だった色部に代えられたというわけである。しかし色部のほうも実はこの日、実父の喪中で上杉家に出仕しておらず、そのようなことはできなかった。事件を受けて翌15日に急遽出仕している。上杉綱憲の出兵を止めたのは実は家臣ではなく、親族の高家畠山下総守義寧である。しかしこれも討ち入りの最中ではなく、討ち入り後、泉岳寺にいる赤穂浪士たちを上杉家が襲撃しないように幕府老中の下知を受けて、上杉家に派遣されただけである。
色部は、その後も長く江戸家老職にあったが、享保元年(1716年)8月6日に隠居が認められて米沢に帰国した。隠居料として10人扶持を与えられて寿残斎と号す。寛保元年(1741年)に死去。享年86。米沢の千眠寺に葬られた。法名は不著院殿禅堂開基独安長慎居士。