航海条例
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航海条例(こうかいじょうれい、Navigation Acts)は、狭義にはクロムウェルが実権を握っていた1651年にイングランド共和政府が発布した条例である。「航海法」「航海条令」ともよばれ、オランダ商人による中継貿易の排除を目的とした。英蘭戦争のきっかけとなり、またイギリス商業革命の要因ともなった。Actsと複数形で呼ばれるのは、航海法が制定されたのが複数回(1381年から1696年にかけて9回)だからである。ここでは、歴史的に最も頻繁に言及される1651年の航海条例についておもに説明する。
目次 |
[編集] 1651年の航海条例
[編集] 骨子
この条例の目的は重商主義にもとづき、植民地との中継貿易からオランダを締め出すことにあった。植民地およびヨーロッパ諸港との貿易を、以下の条件を満たす船に限定し、それ以外の入港を禁止した。ただし、植民地の船の乗り入れは許された。
- 乗務員の四分の三以上がイングランド人であること。
- イングランド製の船であること。
- 所有者がイングランド人であること。
明文化はされていないが、フランスや当時中継貿易の主役であったオランダの排除が狙いであることは明白であり、この法案の起草者・支持者もそれを狙っていたといわれる。
[編集] 制定の経緯
オリヴァー・クロムウェルが実権を握っていた時期にこの法案が議会を通過したため「クロムウェル航海法」とも呼ばれるこの法案には、実際はクロムウェルは関わっていない。1651年10月に議会を通過したとき、クロムウェルは国王軍討伐の遠征の途上にあった。法案はピューリタン革命で議会に残ったランプ議会が通過させたが、この発案者や推進者が誰なのかは分かっていない(1)。クロムウェルは、プロテスタント勢力が相争うことになると思われるこの法案に批判的であり、クロムウェル率いる軍と議会の溝は深まっていった。
[編集] 航海条例の影響
1651年の航海条例は、対内的・対外的に影響を与えた。その主なものを列挙する。
- それまで同じプロテスタントとして比較的友好状態にあったオランダとの関係が決定的に悪化し、翌1652年に始まる英蘭戦争の引き金になった。この勝利により、イギリスは世界帝国の形成および重商主義政策に向かうことになった。
- オランダとの戦争は、逼迫していた国家財政をさらに悪化させた。財源に窮したランプ議会は、教会や王室および国王派の領地没収を行った。それでも財政を賄えず、議会は軍隊の縮減を要求するにいたった。これに反発した軍は実力行使におよび、ランプ議会を解散させた。その後しばらく国政は混乱することになり、クロムウェルの護国卿就任へとつながった。
- 上に関連して、国情の混乱が結果的にピューリタン革命の終焉と王政復古への道を早めた。
[編集] その他の航海法
Navigation Actとよばれる法は9回制定されている。1381年・1485年・1540年の航海法は、たんに海運を盛んにするとともに海上防衛を強化させるためのものであった。1650年の共和政府による航海法は、イングランド植民地における外国船の交易を禁じた。1660年には、砂糖などの植民地の主要産物は本国にのみ輸出できるとし(他国への輸出を禁止)、さらに1663年、ヨーロッパから植民地への輸出はイングランドを介して行うものとした。これによってイングランドは植民地との交易を完全に掌握するに至り、密貿易を取り締まる目的で1672年にも制定された。最後の1696年航海法は、商務植民地庁(商務省の前身、Board of Trade and Plantations)を設置し、貿易の統制・監督を行わせるためのものである。
これら諸航海法は、19世紀に入って自由主義経済とその思想が広まりを見せると、それにあわせて1854年廃止された。
[編集] 関連事項
[編集] 脚注
- 航海条例の制定を推進・支持した者について、オランダ商人に対抗していたイングランド貿易商人(特に特権から排除されていた密貿易商)の存在が指摘されている。