臥雲辰致
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臥雲 辰致(がうん たつむね(たっち、ときむね)、天保13年8月15日(1842年9月19日) - 明治33年(1900年)6月29日)は、明治初期に臥雲式紡績機を発明した発明家。幼名は栄弥。横山元の姓は横山で、「臥雲」姓は住持であった寺の山号に由来。
信濃国安曇郡小田多井新田村(現安曇野市堀金三田)の出身。父は儀十郎。横山家はかつては豪農であったが、父の代に没落したという。家業として営んでいた足袋底織業を手伝い、少年の頃から能率向上のための紡績器械改良を思案し、発明もしていたという。文久元年(1861年)20歳で近隣の法隆山安楽寺(岩原村)で出家し、智恵と名乗る。慶応3年(1867年)には末寺の臥雲山孤峰院の住持となるが、明治4年、明治政府の廃仏毀釈により廃寺となると還俗し、臥雲姓を名乗る。
幕末の開国以来、日本の紡績業は輸入綿糸や綿布に圧迫されていたが、1873年(明治6年)に最初の臥雲式紡織機(ガラ紡)を発明。明治8年に専売特許を申請するが公売を許されたのみで、翌明治9年に筑摩県庁に斡旋されて官営松本開産社に出品し、社内に連綿社を設立。ガラ紡製作機を事業化し、1877年(明治10年)に東京上野で開催された第一回内国勧業博覧会に出展して最高の賞である鳳紋賞牌を受賞した。臥雲式紡績機は各地に広まったが、洋式紡績機が普及するにつれて1890年ごろからは衰退した。