義姫
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義姫(よしひめ、天文17年(1548年、1547年とも) - 元和9年7月17日(1623年8月13日))は戦国時代の人物で出羽国の戦国大名、最上義守の娘、最上義光の妹である。伊達政宗の母。男勝りの武芸と才智で知られる一方、通称、「奥羽の鬼姫」と呼ばれるほど気性の激しい人物であった。お東の方。保春院。
出羽・山形城に生まれる。19歳で、対立していた伊達輝宗に和睦のため嫁ぎ、政宗、小次郎を産む。しかし、隻眼の政宗を嫌い、弟の小次郎を寵愛していた。1585年、輝宗が畠山義継に殺されると、嫡男・政宗がその跡を継いだが、これを良しとせず政宗を亡き者にしようと決意。同盟国ではあるが、長年、緊張関係にあった実家の最上家に対して伊達家の内部の情報を流すなど、実の子を追い落とすために策謀を繰り広げた。政宗が奥州の覇者たるべく、近隣制覇の道を究める中、最上家とは遠縁にあたる塩松氏の一族の多い塩松城攻めに出たり、最上家の本家にあたる大崎氏に攻め込むなどのことが、義姫の足利氏の一族の出との意識を逆撫でし、さらに対立の度を深めた。さらに、政宗が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しようとした1590年には、毒入りの膳を義姫自身が差し出した。政宗は毒を口にしたが、解毒剤のおかげで難を逃れた。この件により母子の対立は頂点に達し、政宗は弟小次郎を切腹させたとされる(ただし、この毒殺未遂の話が詳細に伝わるのは江戸時代の記録『治家記録』などによるもので、『治家記録』では食事をする前に御膳番衆が企みを見抜き、政宗はそのまま帰宅したとされている。この他にも、政宗を呪い殺そうとしたという話も伝わる。)その後は実家の最上家に戻った(ただし、近年では最上家行きはこの事件の数年後とする説もある)。
このほか、伊達氏(政宗)が最上氏(義光)の領地に攻め込んだとき、義姫が戦場に割り込んだため数ヶ月間休戦が続き、結局、両者が退却することなどが知られている。
1614年に義光が没し、その後の内紛によって1622年に最上氏が改易されると、行き場を失った。しかしそれまでの幾度の文通により、実母を許していた政宗を頼り、その居城・仙台城に入った。そして1年後に同地にて死去。享年76。墓所は仙台市若林区の保春院。
晩年まで政宗とは折り合いが悪かったが、政宗の武将としての活躍を見ると、温和で武将としては平凡だった父・輝宗よりは、母・義姫に似るところが多かったともいえる。