織田信浮
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織田 信浮(おだ のぶちか、寛延4年8月9日(1751年9月28日) - 文政元年11月19日(1818年12月16日))は、江戸時代の出羽国高畠藩の藩主。丹波柏原藩分家・高家旗本織田信栄の5男。通称は八百八。官位は従五位下越前守、左近衛将監。
明和4年(1767)8月21日明和事件により、幕府は上野小幡藩主織田信邦は蟄居隠居を命じた。また、信邦の仮養子であった実弟の信浮に家督の相続を許可した。しかし、陸奥信夫郡、出羽置賜郡、出羽村山郡内2万石への転封を命じた。翌年11月15日出羽国置賜郡高畠村に陣屋を構える許可を得る。なお、寛政12年(1800)12月25日、幕府は信夫郡・村山郡内の領地9920石余を収公、村山郡内に替地を与えた。この替地により、領地の大部分が村山郡内に集中することになった。
明和7年11月15日将軍徳川家治に御目見をする。明和8年6月25日藩主として初めてお国入りする許可を得る。安永元年(1772)12月18日従五位下越前守に叙任する。なお、明和事件の処罰により、信浮以降の織田家の当主は、大広間詰といった国主並の待遇や従四位下侍従への官位昇進といった優遇措置を受けられなくなった。織田信浮は明和事件で失った国主並という家格と旧領への転封を願うばかりで、藩政に見るべきものはなかったといわれる。逆に天明の大飢饉や文化7年(1810年)の高畠陣屋焼失などの災難に見舞われた。文政元年(1818年)11月19日死去、享年68。
正室は一柳末栄の長女(離婚)、相馬恕胤の次女智恵子(死別)、小笠原長恭の長女光子。長女喜姫(田沼意明室、井上正甫室)、次男通貫(旗本稲葉通義養子)、九男信美、十男長郷(津田姓)ら十男九女あり。
- 織田氏(高畠藩初代)藩主
- 1767~1818
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- 先代:
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- 次代:
- 織田信美