第百十国立銀行
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明治11年、防長2州の旧藩士が井上馨はじめ出身者の勧めで政府から下賜された金禄公債をもとに資本金60万円で営業開始したものである。はじめ第百十国立銀行と云い、31年11月商法の規定により株式会社百十銀行と改称。明治25年には開墾事業に投資したが失敗し、井上が救済を取り纏めている。その後、日清戦争の後の反動から経済停滞により経営危機に至ったが、炭鉱業の先覚者である貝島太助(1845-1916)と麻生太吉(1857-1933)に依頼して調査したところ、同行の貸付先である炭鉱の7、8割が不良債権と判断された。井上馨は救済について、山縣、杉孫七郎らと井上馨の内山田邸でたびたび会合し、メキシコ弁理公使を辞めて帰国していた室田義文(ハルピンで伊藤博文が狙撃された折の随行員)を頭取にして、井上がサポートする事になった。室田は銀行経験は一切なかったが、井上の指示に従って、日銀総裁山本達雄・三井の益田孝らを動かし、日本・十五、三井・第一・鴻池の諸銀行と毛利家からも融資を仰ぎ175万円を集めた。室田の補佐役として水谷耕平をあて、財務整理をしたが到底及ばなかった。しかし、当時三井銀行では門司と下関に支店があり下関は百十銀行へ移行する事にした。百十銀行にとっては都合の良い事に当時の下関支店の預金600万円の内100万円を引継ぎを受ける事ができた。三井銀行下関支店長はたまたま井上馨の甥(兄・光遠の三男)森祐三郎(1864-1950)であった。