神保慶宗
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神保 慶宗(じんぼう よしむね、生年不詳 - 永正17年12月22日(1521年1月30日))は日本の戦国時代の武将で越中国の守護代家神保氏の当主。父は神保長誠。越前守。道五郎。宗右衛門尉。初名「慶良」。法名「宗茂」。子に神保長職。
越中神保氏の最盛期を築いた神保長誠の後継者。文亀元年(1501年)の長誠死後、内紛を経て神保家当主となる。しかし永正3年(1506年)3月、突如侵入した加賀一向一揆に敗退し、越後の長尾能景を頼る。能景はこれに応えて8月に越中に来援し、長尾・神保勢は婦負郡寒江蓮台寺の戦いにおいて一揆勢を撃破した。ところがその後神保勢は長尾軍に対し協力を渋り、続く般若野の戦いで長尾勢は一揆勢に敗北し、能景は討死を遂げた。この事件を能景の子長尾為景は、慶宗の裏切りであるとして憤慨し、以後両家は度々合戦を繰り返す宿敵となった。
一方慶宗は本願寺坊官下間家との婚姻を進めるなどして一向一揆との和解を進め、守護畠山氏から独立する動きをみせた。このため、永正16年(1519年)に守護畠山尚順は能登守護畠山義総と長尾能景を誘い、猶子畠山勝王を主将とする神保慶宗征伐の軍を起こした。慶宗は二上山城(守山城)に籠城し苦しい戦いを強いられたが、畠山軍を急襲して撃退し、窮地を脱した。しかし翌永正17年(1520年)再び連合軍の侵攻を受け、新庄城の戦いで長尾勢に敗北、敗走中に自刃して果てた。