相良長続
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相良 長続(さがら ながつぐ、1411年(応永18年) - 1468年(応仁2年))は、相良氏の第11代当主。父は相良一族の相良実重。官位は従五位下。左近将監。通称は藤五郎。
初名は永留長重。肥後国球磨郡の山田城を領していたが、1448年に上相良氏の多良木頼観・多良木頼仙兄弟が相良氏第10代当主・相良堯頼を追放した後、長続は薩州島津氏・豊州島津氏らの支持を受け、菱刈氏らの協力も得た長続は、直ちに多良木兄弟を討ち取って人吉城を支配下に置き、堯頼を復帰させることで上相良氏と下相良氏で分裂していた相良氏を、下相良氏のもとで統一することに成功した。そして堯頼が亡くなると、家督を継いで第11代当主となった。
1458年には島津忠政と戦って勝利し、牛山城を獲得する。その後も菊池氏などと戦って勢力を拡大した。
1467年、応仁の乱が起こると細川勝元に与して上洛し、活躍したが病を得て翌年に帰国し、まもなく58歳で死去した。法号は宝山道珍。墓地は永国寺。後を三男の相良為続が継いだ。