皆川藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
皆川藩(みながわはん)は、下野国都賀郡皆川(現在の栃木県栃木市皆川城内町)に存在した藩。
目次 |
[編集] 藩史
戦国時代、皆川は松平忠輝の後見人になったことで有名な皆川広照が治めていた。広照は小田原征伐のとき、北条氏に与したが徳川家康に降伏し、所領1万3000石を安堵された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで広照は常陸国の佐竹義宣を牽制した功績を賞されて、3万5000石に加増された。慶長8年(1603年)、広照は松平忠輝が川中島藩に移ったのに伴なって、信濃国飯山藩7万5000石に加増移封となり、皆川藩は廃藩となった。
寛永17年(1640年)、上総国百首藩から松平重則が1万500石で入り、ここに再び皆川藩が立藩する。重則の後は松平重正が継いだが、重正は寛文2年(1662年)9月2日に死去。後を松平重利が継いだが、重利は寛文5年(1665年)3月24日に7歳で夭折した。当然、嗣子がいるはずも無く、松平(能見)氏は無嗣改易となり、皆川藩は廃藩となった。
元禄12年(1699年)、上野国・武蔵国・相模国などに1万石を領していた若年寄の米倉昌尹が5000石加増の1万5000石で入る。昌尹は同年7月12日に死去し、その後を継いだ第2代藩主・米倉昌明のとき、弟の米倉昌仲に3000石を分与したため、1万2000石となった。昌明は元禄15年(1702年)4月25日に死去し、その後を米倉昌照が継いだ。昌照は正徳2年(1712年)5月23日に死去し、後を米倉忠仰が継いだが、忠仰の代である享保7年(1722年)、居館を武蔵国六浦藩に移したため、遂に皆川藩は廃藩となったのである。
[編集] 歴代藩主
[編集] 皆川(みながわ)家
譜代。1万3000石→3万5000石。
- 皆川広照(ひろてる)