田中智學
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田中 智學(たなか ちがく、田中 智学、1861年-1939年11月17日)は、明治期から昭和初期にかけての宗教家。父は多田玄龍。母は凛子。本名は巴之助。
多田玄龍・凛子の3男として江戸で生まれ、10歳で日蓮宗の宗門に入り智學と称した。1872年(明治5年)から田中姓を称している。その後、宗学に疑問を持って還俗し、宗門改革を目指して1880年(明治13年)横浜で蓮華会を設立。1884年(明治17年)東京で信者の組織として立正安国会を設立し、1914年(大正3年)には諸団体を統合して国柱会を結成した。日蓮主義運動を展開し、日本国体学を創始して国家主義を推進し、高山樗牛・姉崎正治らの支持を得た。
[編集] 八紘一宇
明治36年(1903年)、日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味の「八紘一宇」を『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇」から造語した。大正2年(1923年)3月11日に機関紙の国柱新聞に「神武天皇の建国」でも言及した。
[編集] 関連項目
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