狭穂姫命
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狭穂姫命(さほひめのみこと、生年不詳_垂仁天皇5年(紀元前24年)10月没)とは、記紀に伝えられる垂仁天皇の最初の皇后(垂仁天皇2年(紀元前28年)2月9日立后)。『古事記』において最も物語性の高いとされる、垂仁天皇条の「狭穂毘古の叛乱」のヒロイン。兄の狭穂彦王(沙本毘古)の起した叛乱に殉じる。『日本書紀』では狭穂姫命、『古事記』では沙本毘売命、または佐波遅比売命。
父は彦坐王(開化天皇の子)、母は沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の女)。同母の兄弟は日下部連・甲斐国造の祖狭穂彦王、若狭耳別の祖室毘古王、葛野別・近淡海蚊野別の祖袁邪本王。 子に誉津別命(本牟智和気御子)がある。
ちなみに垂仁天皇の次の皇后である日葉酢媛命は彦坐王の子である丹波道主王の女であり、姪に当たる。
春の女神で同名の佐保姫とは無関係。佐保姫の項、参照。
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[編集] 狭穂毘古の叛乱
[編集] あらすじ
以下は『古事記』におけるあらすじ。名前の表記は、『古事記』に従う。
狭穂毘売は垂仁天皇の皇后となっていた。ところがある日、兄の狭穂毘古に「お前は夫と私どちらが愛おしいか」と尋ねられて「兄のほうが愛おしい」と答えたところ短刀を渡され天皇を暗殺するように言われる。
妻を心から愛している天皇は何の疑問も抱かず姫の膝枕で眠りにつき、姫は三度短刀を振りかざすが夫不憫さに耐えられず涙をこぼしてしまう。目が覚めた天皇から、夢の中で「錦色の小蛇が私の首に巻きつき、佐保の方角から雨雲が起こり私の頬に雨がかかった。」これはどういう意味だろうと言われ、狭穂毘売は暗殺未遂の顛末を述べた後兄の元へ逃れてしまった。
反逆者は討伐せねばならないが、天皇は姫を深く愛しており、姫の腹には天皇の子がすくすくと育っていた。姫も息子を道連れにするのが忍びなく天皇に息子を引き取るように頼んだ。
天皇は敏捷な兵士を差し向けて息子を渡しに来た姫を奪還させようとするが、姫の決意は固かった。髪は剃りあげて鬘にし腕輪の糸は切り目を入れてあり衣装も酒で腐らせて兵士が触れるそばから破けてしまったため姫の奪還は叶わない。天皇が「この子の名はどうしたらよいか」と尋ねると、姫は「火の中で産んだのですから、名は本牟智和気御子とつけたらよいでしょう」と申し上げた。また天皇が「お前が結んだ下紐は、誰が解いてくれるのか」と尋ねると、姫は「旦波比古多多須美知能宇斯王に兄比売と弟比売という姉妹がいます。彼女らは忠誠な民です。故に二人をお召しになるのがよいでしょう」と申し上げた。そうして炎に包まれた稲城の中で、狭穂毘売は兄に殉じてしまった。
[編集] 歴史的位置付け(一考察)
[編集] ヒメ・ヒコ制のひとつの終焉
狭穂彦・狭穂姫の関係は古代におけるヒメ・ヒコ制の影響がみられる。ヒメ・ヒコ制とは、姉・弟または兄・妹を原則とする二王により統治され、ヒメが祭祀を、ヒコが政治・軍事を司る制度である。代表的なものが卑弥呼・男弟の関係である。上古においては多く、狭穂姫・狭穂彦のように対となる名称で見られる。権威としてはヒメのほうが上位であった。 采女としてヤマト朝廷に各地の豪族が貢進した姉妹や娘は地方の高級巫女であり、巫女をたてまつることは地方の神を中央に服属させることであった。 崇神天皇と垂仁天皇の時代にそれぞれ、天照大神と大物主の祭祀に関する記述があり、皇女の倭姫命が天照大神を奉じて伊勢神宮を興したとある。この天皇と斎宮の関係もヒメ・ヒコ制のなごりと見ることが出来が、崇神・垂仁期に祭祀に関する大規模な整備が行われたことが伺える。狭穂姫は兄と夫と言うだけでなく、ヒメ・ヒコ制と天皇制との板ばさみになったのである。狭穂毘古の叛乱は、ヒメ・ヒコ制における祭祀を天皇のもとに中央に集約しようとする過程での象徴的な事件、また『古事記』のその叙情的な記述から、ヒメ・ヒコ制の一つの終焉にたいする記念碑的な位置付けとしてみることが出来る。
[編集] 丹波・息長氏への勢力移動
崇神の和風諡号は「ミマキイリヒコ」、次の垂仁天皇の和風諡号は「イクメイリヒコ」であり、共にイリヒコが共通している。イリヒコ・イリヒメは当時の大王・王族名に現れる特定呼称であるが、「イリ」が後世の創作とは考えにくいことから、これらの大王・王族は実在の可能性が高まり、崇神を始祖とする「イリ王朝」「三輪王朝」説なども提唱されている。また、この「イリ」に関しては入婿の意があるのではないかと言われる。古代日本社会は母系制であり、男は女のもとに通う「通い婚」であり、生まれた子は母方で育てられ、財産も母方のものを受け継ぐ。崇神・垂仁天皇も大王を出すことの出来る実力のある豪族のもとに入った、入婿なのではないかと考えられる。
狭穂姫以前は、天皇の后妃、特に皇后の系統は磯城県主系統で占められていた。しかし、狭穂姫が後妻に指名したとされる日葉酢媛以降、后妃は丹波・息長氏系統へと変わって行く。つまり、天皇を擁立することの出来る勢力が、丹波・息長氏系統へと移動したことがみえる。