源義清
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源義清は、
[編集] 源義清 (武田冠者)
源義清(みなもとのよしきよ、承保2年(1075年)-久安5年(1149年))は、河内源氏の一族で甲斐源氏の祖となる源義光(新羅三郎義光)の三男(次男とも)。母は平清幹の娘。幼名は音光丸。通称は刑部三郎、武田冠者など。
父の義光が常陸国に勢力を扶植する過程で、同国武田郷(茨城県ひたちなか市武田)の支配を任され「武田冠者」を名乗る。しかし同国内に根強い勢力を持つ大掾氏らと争って敗れ、勅勘を蒙って長男清光とともに甲斐国に配流となった。
しかしこれによって、かえって甲斐国に勢力を拡張することとなり、清光以降脈々と続く甲斐源氏の始祖となった。その末裔には武田氏を筆頭として、南部氏、小笠原氏、三好氏といった日本史上の名族が生まれている。
[編集] 源義清 (左京権大夫)
源義清(みなもとのよしきよ、生没年未詳)は源義忠の四男。従五位下、左京権大夫。
系図によると母は平忠盛の娘とされているが、年代的に考えてこれは誤りであり、平正盛の娘、即ち忠盛の姉妹が正しいと思われる。いずれにせよこれは、義忠と伊勢平氏一族の繋がりを暗示する記述であり、後世治承・寿永の乱において、義忠の子孫の一部が平家方に与したことの遠因の一つとして考えられている。
[編集] 源義清 (矢田判官代)
源義清(みなもとのよしきよ、久安5年(1149年)?-寿永2年(1183年))は源義康(足利義康)の庶長子。通称を矢田判官代といい、足利義清、矢田義清とも記される。妻は新田義重の娘。義房・義実・義縁といった子息があり、また山名義範の実父であるという説もある。
長男であったが妾腹のために、本拠の足利荘を嫡出である異母弟の義兼に譲って、自らは京において上西門院に仕える。治承4年(1180年)の以仁王の挙兵に際しては源頼政と行動をともにし、頼政が敗死した後は源義仲の麾下に走って平氏政権打倒運動に参加する。
寿永2年(1183年)、西海に走った平家を追撃するべく、義仲の代官(総大将)として海野幸広とともに一軍を率いて京を出発。同年11月17日、備中国水島において、平重衡・通盛の率いる平家軍と激突(水島の戦い)。船戦に慣れた平家軍を前に大敗を喫し、海野幸広や弟の義長らとともに壮絶な戦死を遂げた。
後世において、義清の子孫は、細川氏・仁木氏・戸賀崎氏・矢田氏と称して、繁栄した。