済南事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
済南事件(さいなんじけん)は1928年(昭和3)5月3日、中国山東省の済南で、日本の権益確保と日本人居留民保護のため派遣された日本軍(第二次山東出兵)と北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件。
事件の中で、日本人居留民12名が殺害され、日本側の「膺懲」気運が高まった。一方、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、中国側はこれを重く見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。さらにこれを機に、日本軍は増派(第三次山東出兵)を決定した。
衝突はいったん収まったものの、5月8日、軍事当局間の交渉が決裂。日本軍は攻撃を開始、5月11日、済南を占領した。中国側によれば、その際、中国軍民に数千人の死者が出たとされる。
目次 |
[編集] 当時の状況
当時、中国は南軍と北軍に別れて内戦状態にあり、治安は悪化していたが、済南は主要な商業都市であり、日本人を中心として多くの外国人が居住していた。この内戦の中で、同年5月1日、済南は北軍の手から南軍の手に落ちた。
日本側は居留民保護を理由として同年4月下旬に出兵し(第二次山東出兵)、戦いが城外の商埠地[1]に波及することを防ぐために警備区域(バリケード)を築いていたが、南軍の総司令蒋介石から治安は中国軍によって確保することを保障するので日本軍は撤去して欲しいとの要望がなされ、日本軍は警備区域を撤廃した。
[編集] 事件の発端
事件の発端については、日本側資料と中国側資料で見解が異なり、現状ではどれが正しいか不明とされている。
- 日本側の見解(『昭和三年支那事変出兵史』)
- 南軍の兵士が満州日報取次販売店の吉房長平方を掠奪、主人を暴行した。日本軍が現場に赴くと掠奪兵はただちに自分の兵舎へ逃走。それを追った日本軍に対して歩哨が射撃してきたので日本軍は応戦し、歩哨を射殺。それをきっかけに戦闘となり、全商埠地内に波及した。
- 中国側の見解(『蒋介石秘録』)
- 病気となった兵士を中華民国外交部山東交渉署の向かいにあるキリスト教病院(城外商埠地)に治療に連れていったところ、日本兵に通行を阻止された。言葉が通じないままに言い争いとなったが、日本兵は、革命軍の兵士と人夫それぞれ一人をその場で射殺した。
なお、中国側資料には、以下のような説もある。(『五三惨案』より)
- 中国軍兵士が日本軍兵士と口論となり、衝突となった
- 中国軍兵士が国民政府の貨幣で買い物をしようとし、日本人に阻止された
- 民衆が宣伝ポスターを見ていたとき、日本軍がそれを許さず、民衆と衝突した
- 中国軍兵士が商埠地を通過していることろを日本軍に阻止された
[編集] 被害状況
日本側の参謀本部が編纂した『昭和三年支那事変出兵史』によれば、被害人員約400、被害見積額は当時の金額で35万9千円に達したという。日本人居留民の被害、死者12、負傷後死亡した男性2、暴行侮辱を受けたもの30余、陵辱2、掠奪被害戸数136戸、被害人員約400、生活の根柢を覆されたもの約280、との記録が残っている。なお、日本軍の損害は、死者26名、負傷者157名。 なお、居留民の虐殺については、「(犠牲者の)多くがモヒ・ヘロインの密売者であり、惨殺は土民の手で行われたものと思われる節が多かった」(佐々木到一少将)との見方もある。
中国側の資料によれば、中国側の被害は、軍・民あわせて、死者は「中国側済南事件調査代表団」の報告では「約3,000人」、「済南惨案被害者家族連合会」の調査では「6,123人」。負傷者数は「中国側済南事件調査代表団」では「1,450名」、「済南惨案被害者家族連合会」では「1,701名」とされている
[編集] 事件の影響
その後軍事当局間の交渉から、外交交渉を経て、1929年3月28日、日本軍は山東から撤退すること、双方の損害は共同で調査委員会を組織して改めて調査すること、を骨子とした協定が締結された。中国国内からは、外交官殺害事件が不問に付されたこと、損害賠償も事実上棚上げとなったことから、この協定への非難の声も聞かれ、反日機運が一層高まる一つの契機となった。
[編集] 関連文献
[編集] 単行本
- 朝日ジャーナル編『昭和史の瞬間 上』(朝日新聞社[朝日選書]、1974年5月)、44-52頁、55頁
- 中村粲『大東亜戦争への道』(展転社、1990年12月、ISBN 4886560628)
- 佐藤元英『近代日本の外交と軍事――権益擁護と侵略の構造』(吉川弘文館、2000年2月、ISBN 4642036938)、51-71頁
- 秦郁彦・佐瀬昌盛・常石敬一監修『世界戦争犯罪事典』(文藝春秋、2002年8月、ISBN 4163585605)、61-63頁
[編集] 論文・記事
- 邵建国「済南事件の再検討」『九州史学(九州大学)』93号(1988年9月)、59-81頁
- 重光葵「済南事件解決」『中国研究月報』42巻10号(通号488号、1988年10月)、中国研究所、41-46頁
- 邵建国「『済南事件』交渉と蒋介石」日本国際政治学会編『国際政治』104号(1993年10月)、168-182頁
- 服部龍二「済南事件の経緯と原因」軍事史学会編『軍事史学』134号(1998年9月)、19-30頁
- 富永正三「済南事件の歴史的意義」『季刊中帰連』10号(1999年9月)、15-21頁
- 馬節松(山辺悠喜子訳)「『五・三惨案(済南事件)』を語る」『季刊中帰連』10号(1999年9月)、22-27頁
- 李家振(山辺悠喜子訳)「済南惨案の再検証、『済南惨案』の七〇周年に際して」『季刊中帰連』10号(1999年9月)、28-35頁
- 邵建国「『済南事件』をめぐる中日外交交渉」『名古屋商科大学商学部論集』第44巻第2号(2000年3月)、145-156頁
- 高文勝「済南事件の解決交渉と王正延」『情報文化研究(名古屋大学)』第16号(2002年10月)、163-188頁