清岡卓行
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清岡卓行(きよおか たかゆき、1922年6月29日 - 2006年6月3日)は、日本の詩人、小説家。
妻は作家の岩阪恵子(いわさか けいこ、本名 清岡惠子)。
[編集] 略歴
ロシア・日本の租借地であった中国の大連で、生まれてから敗戦による本土引揚げまでの20数年間(本土での一高、東大在学時を途中に挟む)を過ごす。大連という歴史的重層性と澄明な風土を備えた空間性のなかで育まれた感受性は、後の作品群に大きな影響を及ぼす。父母の生地は高知県であるため高知県出身の有名人一覧にも記載されている。
彫琢された正確さと豊饒な官能性の複合体というべき文体によって生み出された作品群は、詩と散文に判然と区別されるというよりは、石川淳が指摘したように、その双方のジャンルの枠を読者に思考させる質を備えている。そこに全体として通底しているのは、高橋英夫が指摘するような音楽性である。反時代的に抒情詩の可能性を拓き続けたこの孤高の詩人は、死後平出隆によって「純粋を貫いた詩家」と評された。
37歳で刊行された遅すぎる処女詩集『氷った焔』は、シュルレアリスムからの影響が顕著なイマージュの驚きに満ちた日本戦後詩のひとつの金字塔であり、特に冒頭の詩『石膏』のなかの一行「きみに肉体があるとはふしぎだ」はよく知られている。『氷った焔』は第一詩集にして清岡の詩業全体の扇の要であり、宮川淳が指摘したように、鏡のなかから日常へと歩み出す蝶番となっている。
同時期に詩と映画を論じた最初の評論集『廃虚で拾った鏡』が刊行。ここに収録されたシャルル・スパーク論およびに愛の詩のメタフィジックを論じた詩論は、初期の評論の代表作である。
第二評論集『手の変幻』に収録された、ミロのヴィーナスの両腕の欠落を想像力による全体への飛翔の契機と見る『ミロのヴィーナス』は、戦後の批評テクストのなかでもっとも教科書に多く採用されたもののひとつであり、特によく読まれている。
第二詩集『日常』から第三詩集『四季のスケッチ』を経て、生の憂悶と甘美さがひとつの意志によって貫かれたスタイルが確立されていくが、特に『大学の庭で』や『音楽会で』などの名篇を多く収めた『四季のスケッチ』は優しさに満ちた傑作である。
最初の妻の死を契機に小説を書き始め、敗戦によって決定的に失われた故郷大連と亡き妻への喪のエクリチュールとも言うべき『アカシヤの大連』から1972年の『鯨もいる秋の空』に至るまで、第一期の「大連もの」と分類しうる連作を書き続ける。同様に亡き妻に捧げられた第四詩集『ひとつの愛』に収録された長篇詩『最後のフーガ』は、生涯にわたって私淑したアルチュール・ランボーへのオマージュである。
1970年、岩阪恵子と結婚。
詩壇と距離を置きつつ、日常に深く寄り添いながら書かれた第五詩集『固い芽』から第八詩集『幼い夢と』へと至る70年代半ばから80年代への展開は、同時期の夢をテーマとした作品群と絡まりあいながら、60年代を貫いていた一種の昂揚に代わって日常のより深みに響く音楽が詩となって流れ出している。特に『幼い夢と』はその平明さと質の高い抒情性から広く読まれ、吉本隆明はその「生の倫理と美の感性と生理の必然が緊密にからみあって」いる詩境にもはや「他からどんな言葉もさし挟むことができない」と評した。この言は現代詩壇の閉鎖的ディスクールに弄されることの少なかった清岡の詩の豊饒さの本質を言い当てているだろう。
またこの時期には、引揚げ以来の中国への旅が国交回復により果たされたことによって中国をテーマにした詩篇や小説が多い。『大連小景集』に始まって80年代を貫く第二期の「大連もの」の小説群は、「致命的なわたしの夢」としての大連の神話を歴史へと解体する意味を備えていた。『氷った焔』以前の文語詩篇を中心に収録した第11詩集『円き広場』も同時期に刊行されており、大連の中山広場を詠んだ表題作をはじめ名篇が多い。
晩年の代表作は約10年に及んで書き継がれた『マロニエの花が言った』である。イマジネールな都市としての両大戦間のパリを舞台に、藤田嗣治、金子光晴、ロベール・デスノス、岡鹿之助、九鬼周造らの登場する、多中心的かつ壮大な織り物と言うべきこの小説は、堀江敏幸をして「溜息が出るほど美しい」と言わしめた序章をはじめ、随所に鏤められたシュルレアリスムの詩の新訳もひとつの読みどころであり、詩と散文と批評の緊密な綜合が完成の域に達している。
また晩年は、詩誌『現代詩手帖』新年号の巻頭を衰えるところを知らない清新な詩篇で飾り続けた。
1949年、東大在学中に、プロ野球の日本野球連盟に就職し、のちセ・リーグ事務局に勤務して日程編成を担当。「猛打賞」を発案したことでも知られる。1964年退社し、法政大学講師、のち教授となる。
2006年6月3日、間質性肺炎のため東京都東村山市の病院にて死去。83歳。
[編集] 著作
■詩集
- 『氷った焔』1959年 書肆ユリイカ
- 『日常』1962年 思潮社
- 『四季のスケッチ』1966年 晶文社
- 『ひとつの愛』1970年 講談社
- 『イヴへの頌』(編著)1971年 詩学社
- 『固い芽』1975年 青土社
- 『駱駝のうえの音楽』1980年 青土社
- 『西へ』1981年 講談社
- 『幼い夢と』1982年 河出書房新社
- 『初冬の中国で』1984年 青土社
- 『円き広場』1988年 思潮社
- 『ふしぎな鏡の店』1989年 思潮社
- 『パリの五月に』1991年 思潮社
- 『通り過ぎる女たち』1995年 思潮社
- 『一瞬』2002年 思潮社
- 『ひさしぶりのバッハ』2006年 思潮社
■散文著作(批評・小説・随筆)
- 『詩と映画/廃虚で拾った鏡』1960年 弘文社
- 『手の変幻』1966年 美術出版社
- 『アカシアの大連』1970年 講談社
- 『抒情の前線』1970年 新潮社
- 『フルートとオーボエ』1971年 講談社
- 『海の瞳』1971年 文藝春秋
- 『鯨もいる秋の空』1972年 講談社
- 『サンザシの実』1972年 毎日新聞社
- 『花の躁鬱』1973年 講談社
- 『萩原朔太郎「猫町」私論』1974年 文藝春秋
- 『詩礼伝家』1975年 文藝春秋
- 『夢を植える』1976年 講談社
- 『窓の緑』1977年 小沢書店
- 『藝術的な握手』1978年 文藝春秋
- 『邯鄲の庭』1980年 講談社
- 『桜の落葉』1980年 毎日新聞社
- 『夢のソナチネ』1981年 集英社
- 『薔薇ぐるい』1982年 新潮社
- 『大連小景集』1983年 講談社
- 『猛打賞』1984年 講談社
- 『李杜の国で』1986年 朝日新聞社
- 『別れも淡し』1986年 文藝春秋
- 『大連港で』1987年 福武書店
- 『薔薇ぐるい』(別冊:薔薇の詩のアンソロジー)1990年 日本文芸社
- 『清岡卓行大連小説全集』(上・下)1992年 日本文芸社
- 『蝶と海』1993年9月 講談社
- 『郊外の小さな駅』1996年6月 朝日新聞社
- 『マロニエの花が言った』(上・下)1999年 新潮社
- 『太陽に酔う』2002年 講談社
■翻訳
- 『ランボー詩集』1968年 河出書房新社
- 『ヒロシマ、私の恋人・かくも長き不在』マルグリット・デュラス 1970年 筑摩書房