河野久
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河野 久(こうの ひさし、天保7年(1836年)11月 - 明治20年(1887年)7月または8月)。通称は虎五郎。後に俊八。道号は至道寿人(しどう)。
[編集] 経歴
豊後国国東郡安岐浦(現、大分県国東市)の永松四郎左衛門の三男として生まれた。14歳の時に河野氏の養子となる。21歳の時に「すが」を娶る。 明治6年に大阪の江戸堀に住す。この頃宮地厳夫の講義を聴き敬神の志を起し、それが起因か翌7年に霊夢を見ることになり、修行のため明治8年より泉州の犬鳴山(現在の大阪府泉佐野市内)に篭って滝行などの修行を始める。その後諸山や神社仏閣を巡り、葛城山にいたって山中にて修練をかさねる内、山中照道大寿真(以下、山中照道)という神仙に会い、修真の妙要を授かる。後日再会するも胎息法を勝手に人に教えた罰として師仙より50日間の謹慎を命じられる。謹慎解除後に吉野に入り、明治9年7月7日、数多の神仙たちが降臨して迎える中、山中照道が昇仙する有様を見る。
その後百日の行を勤めた終えた後、東京に上がりある省の土木職に奉職する。久にはまだ10代の息女がいたが、既に妻は死去していたこともあり、娘の将来を考えて貯蓄する為と言われている。またその親子の絆の為に山中照道とともに昇天することをなしとげえなかったとも言われている。当時久から道を学び行を修めた者が数十人いて、その中には平田鉄胤や矢野玄道などもいたらしい。また山岡鉄舟も久の弟子であったかは不明だが交流があったという。その後大阪に戻り、百日間の断食(水も飲まない)を行い、97,8日目にいたって少量の氷水を含んだ後に絶息した。
山中照道より修真の道を授かった久は、その顛末を『真誥』と題字し自記している(梁の陶弘景の『真誥』とは別物)。後に此の顛末記は河野の死後、親族より宮中掌典の宮地厳夫に手渡された。厳夫は河野久に生前何度か会って対談しているが、その折に密かに感じ入る事もあり久を真の仙人とし、著書『本朝神仙記伝』の中に載せている。また、鉄舟の紹介で、日本国教大道社の創立者・川合清丸が興味をしめし、久の寓居を訪問、直接久より口授された内容をまとめ「仙家秘訣 無病長生法」という題で月刊誌『大道叢誌』に掲載し、後に日本国教大道社より単行本として一冊の本にまとめられ上梓された。この本は明治34年6月30日に出版発行され、当時神保町の廣文堂より頒布し江湖に好評を博したと伝えられている。
一部の神道系宗教団体では、この時に川合清丸が、長生法のみでなく山中照道から至道に口授された傳を、ある程度継承したと言われている。ちなみに後日談として、岡山県赤磐郡大田村の山形嶟(たかし)という若者が橋の上から投身自殺を図ろうとし、その刹那に神仙に助けられて、以後熊山の幽郷に伴われ指導を受けるようになったとされる人物であるが、仙掟によりその事を十年間他言せざるに、明治28年に至り、同国御野郡金山の人某に、神のお告げがあり、其の者達三人づれにて山形を尋ね来れるに、ふと感ずることもあって、この折に初めて異界の有様を告白するに及べり。その山形によると明治35年ごろから熊山に入山している内に、自然と神仙の音楽を聴けるようになっていたが、ある時に普段より拙い音が交わっている事を訝しく思い神仙に尋ねたところ、「14,5年前に仙境に入った新参の仙人河野久と言うものが笙を奏でていると聞いている」とのことだった。そのとき山形は久のことなど全く知らなかったが、他日そのことを安仁神社禰宜の太美萬彦に語る機会があり、また太美が親交のある宮地厳夫に河野久のくだんの件を聞き及び、後にその報告をうけた山形は驚いたとの事であり、宮地厳夫は東京華族会館に於いて「神仙の存在について」の講演の中でこの事にふれておられる。これをもって久が尸解したのではないかと解釈されている。
[編集] 異境異界出入の記録書
神仙世界や死後の有様について記述されているものは数少なく、其れは由あっての事であるが国学者・平田篤胤著の『霊能真柱』『仙境異聞』『幽顕弁』『大扶桑国考』『三神山余考』『三十五本国考』『古今妖魅考』及び弟子からその存在を聞き及び現地の情報を、いち早く入手して実地に調査収集記録した『勝五郎再生記聞』薩摩の歌人八田知紀の手になる『霧島山幽郷真語』『天降真蹟考』紀伊国の三澤宗哲の紹介により一時期平田鐡胤が入門した仙人島田幸安の『幸安仙界物語』『神界絵巻』『幽界真図』、江戸期の戯作者で神仙研究家の大江文坡著『成仙玉一口玄談』『五嶽真形図傳』『仙術不老傳』、宮負佐平貞雄『民家要術』『奇談雑史』、宮内嘉長著『遠山毘古』大国隆正著『死後の安心録』土佐潮江天満宮神官宮地玄心著『異境物語』宮地水位著『異境備忘録』『幽境七十八区界記』『霊胎凝結口伝』『霊魂不滅論』、宮中掌典宮地厳夫著『本朝神仙記伝』『神仙の存在について』熱田神宮神官角田忠行著『神霊要論』大洲の先哲矢野玄道著『皇国神仙記』『仙界秘記』『本教学柱』『真木柱』『八十能隈手』山城国向日神社神官六人部是香著『顕幽順考論』『順考神事傳』『産須那古社伝抄廣義』津和野藩士神道家、岡熊臣著『千世の住処』『霊のうつばり』『幽府三神御傳記略』物集高見著『神人』「人界の奇異神界の幽事」「鬼神論講話」「教典側聞」「扶桑皇典」『教三魂辨』、敷田年治著『霊の行方』『神の伊吹』美甘政和著『天地組織之原理』『魂心氣之辨』『幽顕相通神道宇宙観』『稿本大元論霊魂辨』、折口信夫著『平田國學の傳統』、宮中掌典星野輝興著『地上の高天原』『祭祀の展開』五條橘著『神仙霊傳幽躰結成玄義』『神傳靈學乃指針』『古義鎮魂傳』沖楠五郎著『神仙秘笈』河野至道の自伝etcこれ等の先人の遺された書物を繙く事により、日本国土内には古来より神さびたる神仙達が普く存在活動し、異境や隠れ里また死後の世界などの、隠れ閉ざされた世界が、実は表裏一体化されてこの世界の中に実在している実相が、髣髴と体感認識する事ができるという。篤胤は皇国史観の先導的人物との批判があるが、それは一面的ものの見方にすぎない。当時八家の学に通じておられた篤胤は、実に知的好奇心旺盛で、普く実地に調査して異境や死後の世界の存在を解き明かそうとした不撓不屈の神秘主義者であられた事は存外知られていない事実であります。
[編集] 参考文献
- 本朝神仙記伝 ISBN 4434012940
- 神仙の秘区 花の巻 ISBN 4434000403
- 仙家秘訣無病長生法 ISBN 4893501321
- 神仙道・身心強健法・土台記憶法 白井輝一良著
カテゴリ: 中立的観点に議論ある項目 | 仙人 | 1836年生 | 1887年没