毛利元敏
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毛利 元敏(もうり もととし、嘉永2年5月3日(1849年6月22日) - 明治41年(1908年)4月2日)は、長門長府藩の第14代(最後)の藩主。父は第12代藩主・毛利元運(元敏は六男)。母は土屋彦直の娘・欽麗院。正室は嵯峨実愛の娘・保子。側室に美濃子がいる。官位は従二位。
1849年5月3日、江戸で生まれる。幼名は宗五郎。1868年3月5日、先代藩主の毛利元周が隠居したため、その養嗣子として後を継いだ。1869年の版籍奉還で藩知事となり、藩を豊浦藩と改名する。1871年7月の廃藩置県で免官されて東京へ移った。しかしかつて幕末の動乱期の中で、長府藩は明治天皇の叔父にあたる中山忠光が亡命していたときに暗殺したため、1884年に与えられた爵位は子爵であり、その他には勲二等、従二位などに序せられただけであった。だが、元敏自身は詩歌に優れていたことから明治天皇に気に入られて、宮中御歌所寄人に任じられている。歌集には、「松の下葉」などがある。
1908年4月2日、長府にて死去した。享年60。神号:元敏命。墓所:下関市長府の功山寺。