比流王
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比流王 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 비류왕 |
漢字: | 比流王 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
ひりゅうおう |
片仮名: (現地語読み仮名): |
ピリュワン |
ラテン文字転写: | Biryu-wang |
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比流王(ひりゅうおう、生年未詳 - 344年)は百済の第11代の王(在位:304年 - 344年)であり、第6代の仇首王の第2子。304年10月に先代の汾西王が楽浪太守の刺客に殺された際、汾西王の王子がみな幼少であったため、臣民に推戴されて比流王が王位についた。諱・諡は伝わっていない。
[編集] 治世
国外との交流・交戦はなく、337年に新羅の使者が訪問してきたことを伝えるのみである。国内では312年に慰問使を巡回させ、寡婦・寡夫や独り身で自活できないものに穀物を一人につき三石賜った。また、320年には射台を宮殿西部に設けて毎月2回の軍事訓練をさせるようにするなど、国力の増強に努めた。しかし、327年には内臣佐平の優福(王の庶弟)が北漢山城で反乱、331年には旱魃続きで不作となり人々が互いに殺して人肉を食い合うようになるなど、必ずしも国力増強には至らなかったと見られる。
344年10月に薨去した。
[編集] 参考文献
- 『三国史記』第2巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X