歩隲
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歩隲(ほしつ ? - 247年)は、中国三国時代の呉の政治家。字は子山。長男は歩協、次男は歩闡。
徐州臨淮郡淮陰の人。中央の戦乱を逃れて江東に移った。貧家の出身だったため、若い頃は昼は瓜を売って生計を成し、夜は勉学に励んでいたという。この勉学がきいたのか、歩隲は博学多才で知られた。また、性格も冷静沈着な反面、人当たりの良い一面があったため、孫権に気に入られ、その寵臣となった。そして、海塩県の長・鄱陽(鄱は番に「おおざと」)の太守・交州刺史を歴任するなど、孫権から重用されている。
交州刺史のとき、劉表の配下だった呉巨を謀殺し、領民から人望の厚かった士燮を重用することで、交州の安定に努めている。夷陵の戦いの際には、劉備に呼応して蠢動する武陵の異民族を益陽で牽制し、呉が勝利した後も服従しない異民族の平定に尽力した。229年に孫権が皇帝に即位すると、同じ年に西陵都督(西陵はかつての夷陵)に任じられ、その地に赴任した。245年、陸遜が憤死すると、その後を継いで丞相に就任した。史書の記述を信じると、自身はそのまま西陵に留まったように見受けられる。
人物眼にも優れ、孫権に多くの有能な人物を推挙した。『三国志演義』では文官タイプとして描かれているが、上記のとおり軍人としても活躍している。また、孫権の寵臣となっても奢ることが無く、諸葛瑾や厳畯らとは親友だった。
しかし、歩隲死後の272年、彼の次男である歩闡は要衝の地である西陵で城ごと晋に降服し、呉に対して反乱を起こした。歩闡は数ヶ月に渡って籠城するが、頼みにしていた晋の援軍が陸抗によって大敗し、結局鎮圧された。捕虜として晋に渡っていた孫(歩協の子)を除いて一族皆殺しとなった。
『三国志演義』では、孫権が招いた家臣の一人として名前が挙がり、赤壁の戦いの際の降伏派の家臣の一人として登場するが、諸葛亮に論破され罵倒されている(なお、『三国志』では赤壁の戦いに関する記載は一切見られない)。また、夷陵の戦いの際には陸遜の才能を過少評価しその登用に反対するなど、物語の都合上やや損な役回りを担わされている。