武田信豊 (若狭武田氏)
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武田 信豊(たけだ のぶとよ、1514年10月22日(永正11年10月5日) - ?)は、若狭武田氏の第7代当主。武田元光の次男。子に武田義統・信方がいる。
永正11年10月5日生まれ。幼名は彦二郎。妻は六角定頼の娘である。兄に武田信親がいたが、早くに死去したため、1539年に父・元光から家督を譲られた。1542年、細川晴元に与して三好長慶を攻めたが、逆に敗れて有力武将の多くを失うなど、武将としては有能であるとは言えなかった。
しかし文化的には優れた教養人で、故実の筆写や連歌の才能では目を見張るものがある。1554年、細川晴元の要請を受けて丹波国方面に出兵し、松永長頼(三好長慶の家臣で、松永久秀の弟)と戦った。
1556年頃から、家督をめぐって武田氏内部で争いが起こった。この争いの最中、信豊の弟で補佐役でもあった武田信高が死去したこともあり、この争いはさらに激化し、しまいには信豊は嫡男・義統と家督をめぐって争った末に敗れ、一時は近江国に逃亡した。1561年、ようやく父子の間で和議が成立し、信豊は帰国を果たした。この頃、信豊は出家して紹真と号した。
1567年には息子の義統が自身に先立って病死。信豊は、没年が詳しく分かっていないが、少なくとも1570年頃までは生存していたらしく、晩年は連歌の会を開いて悠々自適の生活をしていたという。法名は霊雲寺殿大仙紹其。