正親町公通
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正親町 公通(おおぎまち きんみち、承応2年閏6月26日(1653年8月19日) - 享保18年7月12日(1733年8月21日))は、江戸時代中期の公家。おもに霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)の二代に仕えた。垂加神道の布教に努めたことで知られる。また朝廷政治においては武家伝奏役などをつとめ、朝幕関係の取次ぎに活躍した。号に守初斎、須守霊社。雅号に白玉翁・風水軒。
公家正親町実豊(権大納言)の長男として京都に生まれる。母は公家藤谷為賢(権中納言)の姫。妹に正親町町子(柳沢吉保の側室)がいる。万治元年(1658年)に叙爵。寛文元年(1661年)従五位上侍従となり、寛文5年(1665年)に元服した。その後、右近衛少将・右近衛中将をへて、延宝5年(1677年)に参議となり、公卿に列する。天和元年(1681年)に正三位権中納言となり、貞享2年(1685年)には従二位に昇進。踏歌節会外弁などをつとめて、元禄6年(1693年)から元禄13年(1700年)の間には武家伝奏役をつとめた。元禄8年(1695年)から翌年にかけては権大納言となった。元禄15年(1702年)に朝廷から将軍徳川綱吉の生母桂昌院に対して従一位が下されたが、この異例の叙任の背景には義弟柳沢吉保から朝廷重臣への取り成しを依頼されたこの公通の働きが大きかったといわれる。宝永2年(1705年)に正二位。さらに正徳2年(1712年)に従一位となった。享保18年(1733年)7月12日に死去。享年81。
山崎闇斎の門下生の1人であり、闇斎が創設した垂加神道を朝廷に普及することにつとめた。公通が唱えた垂加神道は俗に正親町神道などと呼ばれる。晩年は絵画と狂歌に没頭した。
子が六人いたが、長男公成と次男公梁は若くして死に、三男実本は裏辻家へ、四男隆叙は四条家へ、五男定俊は野宮家へそれぞれ養子に入ったため、正親町家の家督は末子正親町実連が継いだ。
[編集] 関連項目
- 正親町家第15代当主
- 1703~1733
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- 先代:
- 正親町実豊
- 次代:
- 正親町実連