楠木繁夫
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楠木 繁夫(くすのき しげお、1905年1月20日 - 1956年12月14日)は、昭和期の流行歌の歌手。本名は黒田進。
[編集] 経歴
1905年(明治37年)、高知県佐川に、父は医師である名門の四男として生まれた。音楽好きの母親の影響で、県立中学時代に音楽家を志し、後継を希望した父の反対を押し切って上京。1924年(大正13年)、東京音楽学校(現:東京藝術大学)師範科に入学。本科の声楽部に進み、「城ヶ島の雨」の作曲家・梁田貞に師事した。学生時代は、同級の高木東六(作曲家、代表作:「空の神兵」「水色のワルツ」)らと行動を共にしていたが、1928年(昭和3年)、学生運動で校則などに抗議したメンバーに入っていたため、高木らとともに除籍処分となった。
退学となった楠木は、1929年(昭和4年)、本名の黒田進で、名古屋にあったツルレコードに「五月音頭」を吹き込みレコード歌手としての活動を始める。専属歌手とならず、コロムビアでの「紅蝙蝠」「カフェー小唄」など、30以上のレーベルで、秋田登、藤村一郎など、50を超える相当数の変名を使いこなして各社でレコーディングしていたが、1934年(昭和9年)に、作曲家・古賀政男を重役として迎えて間もないテイチクの専属になる。この時に、自らの名前が似ていることから、楠木正成(戦前は大楠公と呼ばれた)に傾倒していた当時のテイチク社長・南口重太郎によって、楠木繁夫という芸名が付けられるのであった。1935年(昭和10年)には、古賀政男とのコンビで、「白い椿の唄」「ハイキングの唄」「男のまごころ」「緑の地平線」と大ヒットが続き、一躍大ヒット歌手となる。その後も、「女の階級」「のばせばのびる」「啄木の歌」「人生劇場」とヒットを続けるが、昭和13年、古賀政男がテイチク上層部との対立から退社すると、楠木もビクターに移籍。「馬と兵隊」「東京ラグタイム」など、曲には恵まれたが、ヒットに結びつく作品は少なかった。
1939年(昭和14年)頃からは、スクリーンにも活躍の場を広げ、特に日活作品に数多く出演。マキノ正博の監督による「弥次喜多道中記」ではディック・ミネとコンビで弥次喜多を演じ、大映映画「歌う狸御殿」では、狸の国の総理大臣を演じた。テイチク時代に、同じ会社のヒット歌手・美ち奴との浮名を流し、周囲からは二人は結婚するものと噂が高かったが、1942年(昭和17年)に、再び古賀政男の誘いでコロムビアに移籍した後に撮影した「歌う狸御殿」で共演した歌手・三原純子と、翌年の年末に結婚。戦時中ながら、おしどり夫婦の歌手として、工場慰問などに活躍した。
第二次世界大戦後、自らの作曲作品「思い出の喫茶店」などをレコーディングする一方で、夫婦揃って出演した大映映画「春爛漫狸御殿」をはじめ、「蛇姫道中」「江の島エレジー」などスクリーンにも活躍するが、折から流行していたヒロポンと呼ばれる覚せい剤の影響で、往年の光彩を失っていった。1949年(昭和24年)、古巣のテイチクに移籍し、「紅燃ゆる地平線」「ハルピン恋し」などのヒットを出し、紅白歌合戦にも出演している。三原純子との夫婦揃ってのステージや巡業に活躍していたが、かねてからのヒロポン中毒のため、1953年(昭和28年)の「湯の香恋しや」を最後にレコーディングから遠ざかった。さらに、脳溢血のため、音程が狂うという歌手にとっての致命的なダメージと、愛妻・三原純子の肺結核の悪化が重なり、1956年(昭和31年)の春に夫婦揃ってのステージを名古屋で務めた後、二人は二度と生きて会うことはなかった。将来に悲観した楠木は、宝くじの当選で新築したばかりという東京・新大久保の自宅で、1956年(昭和31年)12月14日、女中を映画見物に出かけさせた後、ひとり物置小屋で、首を吊って自殺。52歳という早すぎる死に、高木東六、松平晃ら生前に親しかった友人たちは「緑の地平線」を合唱して、楠木の棺を見送った。故郷・飛騨高山で転地療養していた妻の三原純子も、彼の後を追うように1959年(昭和34年)に38歳の若さで世を去っている。
[編集] 代表曲
- 「轟沈」
- 「突撃喇叭鳴り渡る」
- 「白い椿の唄」
- 「ハイキングの唄」
- 「緑の地平線」
- 「女の階級」
- 「のばせばのびる」
- 「人生劇場」
- 「どうじゃね元気かね」
- 「トンコ節」共演:久保幸江