植村家道
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植村 家道(うえむら いえみち)は、大和高取藩の第6代藩主。
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 享保15年1月24日(1730年3月12日) | |||
死没 | 明和4年3月18日(1767年4月16日) | |||
別名 | 三蔵(幼名) | |||
戒名 | 観道性応等覚院 | |||
墓所 | 奈良県高取町上子島の宗泉寺 | |||
官位 | 従五位下、出羽守 | |||
藩 | 大和高取藩主 | |||
氏族 | 植村氏 | |||
父母 | 父:植村家敬、母:真照院(於嘉久) 養父:植村家包 |
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兄弟 | 兄:植村高堅 | |||
妻 | 正室:松平頼渡の娘 側室:多田源蔵の娘、遠山周軒の娘・浄光院 |
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子 | 6男2女(植村家久、植村家長、佐野義行、 植村家利、要之助、隼太、娘(愛宕通直室)、 娘(愛宕通真室)、娘(三浦為脩室)) |
1730年1月24日(異説として11月21日)、第4代藩主・植村家敬の四男として高取で生まれる。父が1731年に死去したとき、生まれたばかりであったために家督を継げず、第5代藩主・植村家包の養子となり、1738年の家包の死去で後を継いだ。1738年から大和における天領の預かりを任されている。これには外様の大名であった大和宇陀藩の織田信武騒動などが原因であった。
1767年3月18日に死去。享年38。後を長男の家久が継いだ。