森田必勝
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森田 必勝(もりた まさかつ、1945年7月25日-1970年11月25日) 三重県四日市市出身。
[編集] プロフィール
三歳のときに相次いで両親を亡くす。海星中学、海星高校を卒業。当時の建設相河野一郎にあこがれて政治家を志す。早稲田大学政治経済学部を受験するも不合格。その後二年間の浪人期間を経て1966年早稲田大学教育学部入学。
当時の同学部においては珍しい二浪の新入生のためクラス委員に推挙される。空手部入部。この年、東京都豊島区にある育誠社という出版社から月刊誌「論争ジャーナル」が出版される。林房雄の紹介で同雑誌の副編集長である万代潔に出逢った作家三島由紀夫は彼を気に入り、同雑誌と強い関係を結ぶ。同年11月14日反共産主義的学生組織日本学生同盟(日学同)の結成に参加。1967年、早稲田大学国防部の結成に参加。このころ三島由紀夫が祖国防衛隊の構想を持っていることが日学同のメンバーに伝わる。森田の感想は「世界的に著名な作家が私兵軍団を作るなんてヘミングウェイみたいだね」
三島との出会いは、同年6月19日銀座の喫茶店「ビクトリア」で行われた三島と早大国防部との会見においてだと言われるが、詳細は不明。『禁色』の美青年南悠一のモデルとなった実在の男性(戦後の一時期、三島と同性愛関係にあった)と森田が瓜二つだったという証言もある(木村徳三『文芸編集者 その跫音』TBSブリタニカ、1982年)。 当然ながら森田も三島の男色相手の一人である。
同年7月2日から一週間にわたって、三島と共に陸上自衛隊北恵庭駐屯地へ体験入隊。戦車に試乗。「論争ジャーナル」のメンバーも体験入隊への随行を希望したと言われる。三島、日学同、「論争ジャーナル」の三者関係が徐々にできあがる。しかし三島の「祖国防衛隊」構想を巡って、これに賛成する「論争ジャーナル」と反対の立場を取る日学同との間に亀裂が生じる。
直接行動、テロリズムへの憧れをもっていた森田を始めとする日学同内のメンバーは、三島と「論争ジャーナル」への接近を深める。1968年10月5日、三島は民兵組織を正式に結成。万葉集防人歌「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つ吾は」より「楯の会」と名づける。1969年2月森田日学同を脱退。脱退メンバーは十二社にあるアパートで共同生活をしていたため「十二社グループ」と呼ばれた。テロルも辞さない集団。同年9月、楯の会の学生長に任命される。1970年6月三島、決起の具体案を森田、小賀正義、明治学院大学の小川正洋に話す。同年9月、神奈川大学の古賀浩靖が計画に参加。そして同年11月25日自衛隊市ヶ谷駐屯地へ。益田総監を人質にとり、集合した自衛隊員を見下ろす形でバルコニー上から三島演説。決起を迫るが果たせず、三島切腹。森田が介錯するも果たせず、剣道居合の経験者であった古賀が介錯。続いて森田が切腹。同じく古賀が介錯。森田の辞世の句「今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは」25歳4ヶ月の生涯だった。本人は名の「必勝」を「ひっしょう」と呼ぶのを好んでいたという。地元三重県四日市市に銅像がある。