森下広一
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男子 陸上競技 | ||
銀 | 1992 | マラソン |
森下 広一(もりした こういち、1967年9月5日 - )は陸上競技者。1992年のバルセロナオリンピック銀メダリスト。
初マラソンは、1991年の別府大分毎日マラソン。初マラソンながら、急遽、出場したソウルオリンピック・マラソン代表である中山竹通との一騎打ちを演じた。このレースで、中山は39キロ過ぎに森下の肩を叩き、スパートを促した。期待の新星であった森下に、勝負どころを教えるためで、後に語り継がれる名場面であった。言われるまま森下はそのまま飛び出してゴール。2時間8分53秒の初マラソン日本最高記録で優勝した。
翌年の東京国際マラソンで、再び、中山と一騎打ちになり、これを制し、バルセロナオリンピックのマラソン代表となった。 五輪のマラソンレースでは、チームメイトの谷口浩美や前述の中山とともに出場。 大韓民国の黄永祚とマッチレースを繰り広げ、銀メダルを獲得した。
トラックでは1990年の北京アジア大会10000mで優勝、5000mは銀メダル。翌1991年、世界選手権東京大会で10000m 決勝進出。
その後、故障に苦しみ現役を引退。1999年、福岡・宮田町のトヨタ自動車九州陸上部監督に就任。 チームは着実に力をつけ、全日本実業団駅伝への出場、クロスカントリーやハーフマラソンの世界大会代表を輩出する。
2005年には北海道・深川にて10000mの日本歴代3位・国内日本人最高タイムを記録した三津谷祐をヘルシンキ世界選手権代表へ。これがチーム初のトラック種目代表である。 また、深川のレースで三津谷をアシストしたルーキー、サムエル・ワンジルはゴールデンリーグと呼ばれる国際主要大会の10000mで世界ランク上位に相当する26分41秒75をマーク。約2週間後に行われた9月のロッテルダムのレースではハーフマラソンの世界記録(59分16秒)を樹立。
「勝負に強い競技者」 「世界のトップクラスと戦える選手」を育てようとしている、指導者の一人である。
http://rikujouzuki.ninja-x.jp/goal.html 転載しているweb
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