柞原八幡宮
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柞原八幡宮 | |
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所在地 | 大分県大分市大字八幡987 |
位置 | -- |
主祭神 | 仲哀天皇 応神天皇 神功皇后 |
社格等 | 豊後国一宮・国幣小社・別表神社 |
創建 | 天長7年(830年) |
本殿の様式 | -- |
例祭 | 3月15日(初卯祭) |
主な神事 | 夏越祭 仲秋祭(放生会) |
柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)は、大分県大分市にある神社である。「いすはら」「ゆすばる」とも読み、由原八幡宮とも表記する。豊後国一宮で、旧社格は国幣小社。
大分市街地西方の二葉山(八幡柞原山とも)の麓にある。
[編集] 歴史
鎌倉時代に書かれた社伝には、創建の由来が以下のように記されている。天長四年(827年)、延暦寺の僧・金亀(こんき)が宇佐八幡に千日間籠り、「天長7年3月3日に八幡神が豊前国に垂迹する」との神託を得た。天長7年7月7日、大分郡賀来郷に白幡が飛び渡った。金亀はこのことを朝廷に奉上し、承和3年(836年)、仁明天皇の命により豊後国司・大江宇久が社殿を造営した。上記の内容の全てが史実であるかどうかはわからないが、当社が宇佐八幡の豊後国における分祀であるのは間違いなく、宇佐八幡の別宮の一つとして崇敬を受けた。長徳4年(998年)からは宇佐八幡と同様に33年ごとの社殿の造営(式年遷宮)が行われるようになった。
金亀の法統を継ぐ者は宮師(みやし)と呼ばれ、当社の実質的な支配者であった。国府に近いことから特に国司の崇敬を受け、中世以降は大友氏ほか歴代の領主の崇敬を受けた。戦国時代には領主・大友義鎮(宗麟)がキリスト教を信仰したことから排撃を受けたが、江戸時代には歴代府内藩主の厚い保護を受けた。
中世以降、当社は豊後国一宮を称するようになり、それ以前から一宮を称していた西寒多神社との間で近世まで論争があった。当社を一宮と称した最初のものは、嘉応3年(1171年)3月の『宮師僧定清(じょうせい)解』にある、「右、大菩薩は、是れ日本鎮守、百王守護の神霊なり、(中略)豊州の中心に垂迹して、当国の一の宮となる」というものである。
[編集] 文化財
[編集] 重要文化財
- 銅造如来立像(重文指定名称は「銅造仏像」)
- 太刀 銘源国(以下1字並びに年号不明)
- 太刀 銘国宗
- 薙刀直シ刀 銘国重八幡大菩薩天満大自在天神
- 白檀塗浅葱糸威腹巻(びゃくだんぬりあさぎいとおどしはらまき)兜・大袖・小具足付
- 柞原八幡宮文書 17巻(216通)