松平忠郷
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松平 忠郷(まつだいら たださと、生年不詳 - 享保20年7月15日(1735年9月1日)は、江戸幕府旗本。赤穂藩主浅野長矩の重臣でありながら吉良邸討ち入りに参加しなかった弟岡林杢助を切腹させた。通称は孫三郎(まごさぶろう)、左門(さもん)、孫左衛門(まござえもん)。
旗本松平(桜井)左門忠治(1000石300俵)の三男として誕生。母は不詳。兄の新八郎と主馬は、父に先立って夭折したため、代わって嫡男となり、元禄3年(1690年)12月12日に遺領相続、小普請旗本に列した。この際に弟の一人松平左内忠輝(忠輝は実際には庶兄ではないかと思われる。詳しくは忠輝の項を参照)に切米300俵を分知している。
元禄4年(1691年)6月11日、将軍徳川綱吉にはじめて謁見し、元禄9年(1696年)7月5日、御書院番の列に並んだ。
元禄14年(1701年)3月14日、弟岡林杢之助直之が仕えた浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に刃傷に及ぶと浅野家は断絶となり、杢之助も浅野家の家禄を失って江戸の忠郷のもとに戻った。翌年、浅野の遺臣大石内蔵助らによる吉良邸討ち入りがあると忠郷は義挙に加わらなかった杢之助を批判し、ついには弟忠輝の介錯で切腹させ、町奉行所に届け出た。町奉行所では「直之の乱心」として事件を処理したという。
忠郷自身はその後も順調に出世を続け、元禄14年(1701年)9月15日には小十人頭となり、12月18日には布衣(六位相当になったことを意味する)を着用することを許された。正徳2年(1712年)4月1日、小姓組頭に転じ、享保10年(1725年)10月18日には先手鉄砲頭に就任する。この先手鉄砲頭というのは、幕府軍主力部隊指揮官であり、武勇の旗本が選りすぐられることで有名であるから、これに選出された忠郷は相当に武人然とした剛直の旗本だったと思われる。亡君に忠義を尽くさなかった杢之助を絶対に許さなかったのも、この武人然とした性格のためだろう。
享保13年(1728年)4月、徳川吉宗の日光山参詣の際には吉宗の護衛隊長をつとめている(参詣の際の将軍護衛は先手鉄砲頭の任務)。享保20年(1735年)7月15日に死去。法名、超有。深川霊厳寺に葬られた。享年は不詳。妻は旗本森川金右衛門氏知の娘で、その間の子松平忠陣が家督を継いだ。