有馬晴信
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有馬晴信(ありまはるのぶ、永禄10年(1567年) - 慶長17年5月6日(1612年6月5日))は有馬義貞の次男。キリシタン大名として知られ、ドン・プロタジオと呼ばれた。肥前国日野江藩初代藩主。官位は従五位下、修理大夫。子に、有馬直純。
[編集] 生涯
晴信は兄の有馬義純が早世したため、1571年、家督を継承した。この頃の有馬氏は、龍造寺隆信の圧迫を受けて、晴信も隆信の攻勢の前に臣従せざるを得なくなったが、1584年、島津義久と通じて沖田畷の戦いで隆信を滅ぼした。1582年には大友宗麟や大村純忠とともに、天正遣欧使節を派遣している。
晴信はプロタジオという洗礼名を持つ熱心なキリスト教徒で、1587年に豊臣秀吉の禁教令が出されるまで、数万を超えるキリスト教徒を保護していたという。その後も個人的にはキリスト教信仰を守り続けていた。
1600年、関ヶ原の合戦では当初在国のまま西軍に属した物の、西軍惨敗の報を聞くなり東軍に寝返り、小西行長の居城であった宇土城を攻撃、その功績により旧領を安堵された。
ところが晴信の運命を暗転させる事件が起きる(岡本大八事件)。1609年、マカオで晴信の朱印船の乗組員がマカオの市民と争いになり、乗組員と家臣あわせて四十八人が殺されるという事件が起きた。晴信はこれに怒って徳川家康に仇討ちの許可を求めた。そこへマカオにおけるポルトガル側の責任者アンドレ・ベッソアがノッサ・セニョーラ・ダ・グラーサ号(マーデレ・デ・デウス号)に乗って長崎に入港したため、晴信は船長を捕らえるべく、多数の軍船でポルトガル船を包囲した。ところが船長は船員を逃がして船を爆沈した。
この事件の後、家康の股肱、本多正純の家臣であった岡本大八が、晴信に近づき、黒船を沈めた恩賞として家康が有馬の旧領を戻してくれるだろうと持ちかけた。これは偽りであり、岡本大八は晴信をだまして口利き料として多額の金子を受け取っていた。これが発覚し、家康は激怒。岡本大八は火あぶりになり、晴信もまた贈賄の罪をとわれて甲斐国初鹿野に追放された後で、死罪となった。
晴信はキリスト教徒であったため、自殺を選ばず、妻たちの見守る中で家臣に首を切り落とさせた。1612年6月5日であった