李賁
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李賁(りふん、ベトナム語:Lý Bí あるいは Lý Bôn、503年 - 548年)は、李南帝(Lý Nam Đế)とも称され、6世紀中ごろの北ベトナムの指導者で、ベトナムの前李朝、万春国を建国した君主である。
李賁は、龍興の人で、俚族(現代の黎族か?)の出身である。当時の中国南朝梁の交州刺史蕭諮は、苛酷な統治をおこなって民心が離反しており、ときに徳州監の地位にあった李賁は541年12月に交州の人士を集めて起兵し、蕭諮を広州に逃亡させた。翌542年春、李賁らは交州の治所である龍編を占領して、その根拠地とした。李賁らは、当時の梁の支配下にあった交州と徳州の地域(現在のベトナム北部)をほぼ制圧した。
543年4月、南ベトナムのチャンパ王国が李賁を攻撃したが、李賁の部下の范修が徳州でこれを撃破した。
544年1月、李賁は「南越帝」を自称し、天徳と改元し、国号を「万春」とした。「李南帝」の称はここから生まれた。
545年5月、梁の交州刺史楊瞟・陳霸先・定州刺史蕭勃らの軍隊が、前後して朱鳶県と蘇歴河口に展開して、李賁を撃破した。梁軍の包囲下に陥った李賁は嘉寧城に退いた。546年1月、梁軍が嘉寧城を攻め落とすと、李賁は屈獠洞の少数民族のもとに逃亡した。546年9月、李賁は2万人を率いて典澈湖一帯に駐屯し、戦艦を製造していたが、陳霸先の指揮する部隊からの夜襲を受け、敗走して再び屈獠洞に逃げ込んだ。
548年、李賁の死後、李賁の兄の李天宝が残党2万人を集めて九真郡にいたり、梁に対する抵抗を続けた。徳州に進攻し、北上して愛州を包囲したが、陳霸先の軍の前に撃破された。
550年、梁朝が侯景の乱のために混乱すると、陳霸先の軍は北上し、交州近隣に軍事的空白が生まれたため、前李朝は北ベトナムでの勢力を回復することができた。李天宝が555年に病死すると、李賁の部下の趙光復と李仏子が北ベトナムを分割支配した。571年、趙光復が亡くなると、李仏子が北ベトナムを統一して前李朝の勢力を回復した。前李朝は、602年に隋の攻撃により滅ぼされた。
- 前李朝の当主
- 初代:544年 - 548年
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- 先代:
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- 次代:
- 李天宝