本多光夫
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本多 光夫(ほんだ みつお 1931年3月26日 - 2001年7月20日)は編集者、作家、エッセイスト。文筆家としては諸井薫の筆名で知られる。
出身地には長崎県と東京府の二説がある。早稲田大学文学部を中退して河出書房に入り、1957年、戦後初の女性週刊誌「週刊女性」を創刊して編集長となるも、同年、河出書房倒産により休刊となる。このため主婦と生活社に移って同誌を編集したが、1959年、「週刊女性」編集長を退き、世界文化社に移って「家庭画報」の編集長に就任、同誌のリニューアルに成功。のち集英社の別会社であるホーム社に移る。
1977年、プレジデント社に招かれて社長に就任、「プレジデント」誌の部数を4万部台から25万部台にまで伸ばし、名編集長と呼ばれる。のち社内の内紛により退社し、嶋中鵬二の招きで中央公論社に入り、取締役として「婦人公論」誌を再建。
1982年、「男の感情教育」で作家デビュー。以後、59点の単行本と23点の文庫本を上梓した。2001年7月、肝硬変で死去。