朝河貫一
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朝河貫一(あさかわ かんいち、1873年12月20日 - 1948年8月10日 )は、世界的に有名な歴史学者。
福島県二本松市出身。福島県尋常中学(現福島県立安積高等学校)から、1895年東京専門学校(現早稲田大学)を首席で卒業。同在学中に洗礼を受ける。1899年に米国ダートマス大学及びイェール大学大学院を卒業。1902年Ph.D.。
1907年イェール大学講師、1910年同助教授、東京大学史料編纂所留学を経て、1930年準教授。1936年日本人初のイェール大学教授に就任、1942年同名誉教授。
古代から近代に至る日本法制史、日本とヨーロッパの封建制度比較の研究などを行いイェール大学教授となった。特に『入来文書』(鹿児島県薩摩川内市(旧入来町)の入来院家に伝わり鎌倉時代から江戸時代にわたる古文書群。[1])の研究(1929年)が有名。マルク・ブロックらアナール派の歴史学者とも交流があった。日本語の著書としては『日本の禍機』がある。第二次世界大戦中もアメリカに残り、日米開戦の回避、戦争の早期終結のためにフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領に働きかけるなどの努力を行った。バーモント州で死去。墓地はコネチカット州ニューヘイヴンのグローヴストリート墓地と二本松市金色墓地にある。
[編集] 外部リンク
- 横浜市立大教授・矢吹晋HP 朝河貫一顕彰会の紹介や著作目録がある