曹徳
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曹徳(そうとく、 ? - 193年)は、三国時代の魏の宗室。曹操の末弟で、曹嵩の少子(末子)。字は、一説では「秋徳」というが、真偽の程は不詳。
[編集] 略伝
正史・三国志では、彼に関する記述は簡潔で、参照となる文献・資料は意外と少ない。なお、『三国志集解』・『水経注』によると、別名は「疾」で、字は「去病」ともいわれる。
また、海陽哀侯との同人物説も有力で、その娘が夏侯衡の正妻となったともいう。
『魏書』「武帝紀」によると、190年頃に董卓が洛陽を焼き払い、中原周辺を蹂躙すると、父・曹嵩と共に一族郎党を率いて故郷の沛国譙県(現/安徽省亳州市)を追われて、瑯邪国(山東省)に非難したという。
193年に、兄・曹操が有力群雄の一人として地盤を固めたことで、曹父子は故郷に戻ることにした。しかし、その中途で徐州刺史・陶謙の部将である張闓らによって、父・曹嵩と一族郎党と共に殺害されてしまった(曹父子の殺害は様々な諸説があったが、張闓らは財宝目当てのために奪い取り、淮南に逃亡したと、『魏書』「武帝伝」にある)。
父と末弟を初めとした、一族郎党の惨殺の速報を聞いた曹操は、烈火の如く激怒し、剽悍で残忍と噂される青州兵30万を先鋒として、自ら徐州に発進した。やがて、曹操は復讐に執念を燃やして、当地で兵民関係なく老若男女を無差別の大規模な虐殺を実施することになる。
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