早明戦
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早明戦(そうめいせん)とは、早稲田大学と明治大学の間で行われるスポーツ分野での対校戦である。主として関東大学ラグビー対抗戦グループ最終戦で、毎年12月の第1日曜日に国立霞ヶ丘陸上競技場で早稲田大学と、明治大学との間で行われる試合が挙げられる。また、同大学間の文化分野での交流にも使われることがある。
なお、明治大学の学生およびOBなどには「明早戦」(めいそうせん)と呼ぶ者も多い。慶應義塾関係者が「早慶戦」と呼ばずに「慶早戦」と呼ぶのと同じである。
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[編集] 起源
早明戦の起源は早稲田大学と慶應義塾大学の間で行われていた野球対校戦、いわゆる早慶戦が両校の応援が過熱して一時期中止されたことが端緒となっている。早慶両校を取り持つ形で1914年に早稲田、慶應、明治の三大学で野球対校戦が開催されることになった。このときに初めて早稲田対明治の定期対校戦が開始され、早明戦がスタートする。
[編集] 野球
早慶明の対校戦は、後に東京六大学野球連盟の母体となった。現在では野球分野においては同連盟の一試合として実施されている。東京六大学野球のファンの間では早慶戦に次ぐ人気を持っている。
[編集] ラグビー
1923年12月24日に初戦が行われ、以後戦争による中断を挟み現在まで定期戦82戦・大学選手権での対戦11戦を数える。通算成績は(対抗戦)早稲田の46勝34敗2分、(大学選手権)明治の7勝4敗。 毎年12月の第一日曜日に行われる。試合会場は戦前は主に神宮競技場(現在の国立競技場、戦後は秩父宮ラグビー場を経て、1973年以降は国立競技場を使用する。
国立競技場に会場が変わったのは観客数が増えて秩父宮では収容しきれなくなったため。1981年には収容人数を超える66,999人を動員した。これは現在も国立競技場の最多入場記録である。席に座れない観客が通路や階段に座り込み、入場券売り切れ後も千円札を係員に渡して強行入場する客も現れるなど、当然のことながら消防法(定員)に抵触しており、ラグビー協会は関係省庁からかなり厳しい指導を受けた。改装による収容人数増がない限り、この記録は今後も破られないと思われる。
その後も早明戦は満員の観客で国立競技場を埋めており、ファンの間では同戦のチケットは「プラチナチケット」として扱われている。近年は入場券が全て売り切れることはないものの、依然として日本のラグビーの試合で最も多くの観客を集める試合である。
83年の歴史のなかで引き分けが2試合だけあるが、いずれも終了直前に早稲田が同点トライを決めての決着だった。1973年の大学選手権決勝では明治が終了間際に逆転トライで初優勝を遂げた。1962年には対抗戦Bグループに転落した早稲田がAグループ優勝の明治を破り、先述の1981年には早稲田が戦前の圧倒的不利評を覆し逆転勝ち、1987年には前夜からの雪が積もるなか終了前10分間の激しい攻防を演じた「雪の早明戦」・・・など、劇的展開や白熱した名勝負の連続が、早明戦に不動の人気をもたらしたといえる。
「縦のメイジ」「重戦車FWのメイジ」に対し、「横のワセダ」「BKのワセダ」と、チームカラーが余りに対照的なのも、源平から続く二強対立の好きな日本人の感性に合っていると思われる。
なお、スポーツライターの二宮清純は早明戦について、技術論の早稲田、精神論の明治と評している。また、毎年12月の早明ラグビー戦は、NHKで放送されている。
[編集] 文化
こうしたスポーツ競技のライバル関係が元で早稲田と明治の学生間、教員間での交流が盛んになったと言われる。例えば早明は共に政治経済学部を持っているが、それぞれが異なった立場から研究を行い、対決色があった点などが上げられる。この件の詳細は政治経済学部に記載されている。