新田政義
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新田政義(にった まさよし、文治3年(1187年) - 正嘉元年(1257年))は鎌倉時代の武将。新田義房の長男。通称を新田太郎という。
父義房が、祖父新田義兼に先んじて没したため、正治元年(1199年)に義兼没後、わずか13歳で新田氏惣領となる。しかし、曾祖父新田義重が出家して存命であったため、後見を務めた。しかし、建仁2年(1202年)義重が没すると、祖父義兼の妻で祖母である新田尼が後見を務める。政義は執権北条氏と縁戚関係を結び、有力御家人として重きをなしつつあった足利義氏の娘を娶った。
仁治3年(1242年)4月、幕府から預けられていた囚人に脱走され、過怠料として三千疋を納めた。寛元2年(1244年)6月、京都大番役として在京していた政義は幕府に無許可で昇殿と検非違使への任官を求めた。無許可任官は幕法に違反する行為であるため、幕府とのトラブルを怖れる朝廷に拒否される。政義は無許可で出家し、大番役を中止して新田荘に帰り幕府への出仕を拒否した。無許可の任官や自由出家は所領を没収されるような大罪であったにもかかわらず、妻の実家足利氏の働きかけがあったのか、所領の一部と惣領権を没収されたのみの寛大な処置で済んだ。政義は円福寺を創建して隠居した。惣領権は一族の世良田義季と岩松時兼に分けられ、「半分惣領」として両者が新田氏を率いることとなった。墓は、自らが開基した群馬県太田市の円福寺にある。
政義の軽挙妄動により、新田氏の没落は決定的となり、新田惣領家は『吾妻鏡』にも登場しないような一地方御家人に零落した。
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