当麻蹴速
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当麻蹴速(たいまのけはや)は、日本書紀に登場する人物。相撲の神。當麻蹶速が本来の名、漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)により現表記となる。
開化天皇の系統の皇族である小俣王(こまたのおう、当麻勾君(たいまのまがりのきみ)の祖)の血を引く垂仁天皇の時代の人。名前から、蹴り技の名手と言われる。
垂仁天皇7年秋7月己巳朔乙亥(7月7日)大和国の当麻邑(たいまのむら)に住み、強力を誇って「ひたぶるに生死を問わず力比べせむ」と闘争を欲していたが、垂仁天皇の命により出雲国の野見宿禰と角力(日本書紀では捔力)で対戦することになり、互いに蹴り合った後に、腰を踏み折られたという。当麻蹴速の土地は没収されて、勝者の野見宿禰の土地となる。
穴師坐兵主神社(奈良県桜井市)摂社の相撲神社に、野見宿禰とともに祀られている。
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[編集] 相撲開祖當麻蹶速の塚
奈良県葛城市當麻の「けはや座」の近くに1990年以前にあった相撲開祖當麻蹶速の塚、當麻町相撲開祖顕彰会 當麻町観光協会の説明版には次のようにあった。(大意)
二上の霊峰の下に生を享けられた當麻蹶速は天神族の小股王の皇胤で身分の高い品格のある大人物で日本書紀での力のみ恃む卑劣な人ではなかった。垂仁帝の時代、野見の宿祢との日本国技として初の天覧相撲で敗者となったが、氏族間の斗争の犠牲になり、路傍の石として顧みられなかった事は全く不運である。二上登山道中、山口神社、石の鳥居北側付近は當麻蹶速の屋敷跡と云われているが当塚は相撲開祖の蹶速公の墓として毎年追善法要を執行している。
[編集] 参考資料
- 「長谷川明」著 「相撲の歴史」
[編集] 関連項目
- 日本の神の一覧
- 当麻町相撲資料館