市野上浅右エ門
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市野上浅右エ門(いちのじょうあさえもん、明和4年(1767年) - 享和2年2月2日(1802年3月5日))は、江戸時代の力士。四股名は他に熱海嶽(あたみだけ)、鶴ヶ嶽(つるがたけ)、常山(つねやま)、花頂山(かちょうざん)。幕内では花頂山が一番長く、錦絵や史跡でもその名で呼ばれることが多い。最高位は大関だが、病のため実際に土俵をつとめたのは関脇まで。
山形県温海の温泉宿「あらたまや」(現存*[1])の子として生まれ、天明8年(1788年)初代出羽ノ海に見出されて入門。寛政2年(1790年)11月三段目付け出しで初土俵、同6年(1794年)3月新入幕、12年(1798年)4月関脇まで進む。
この間、5年(1793年)3月(当時幕下筆頭、今なら十両)と9年(1797年)3月、雷電爲右エ門を倒し、雷電に二度勝った唯一の力士となる。この間雷電は43連勝を記録する。
享和2年には久留米藩に抱えがかわり、市野上の四股名を下賜される。同年2月の番付では大関にあがるが病欠、同場所後京都巡業中に没する。市野上としても大関としても本場所をつとめることはなかった。