山濤
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山濤(さんとう、205年(建安10年) - 283年(太康4年))は三国時代の魏および西晋の文人。 姓は山、字は巨源。河内郡懐県(現在の河南省)の人。
幼時に父の山曜を亡くしたために貧窮した生活を送った。老荘思想にふけって嵆康・阮籍らと交遊し、竹林の七賢の一人となった。40歳を過ぎて官途について司馬氏に属したため、嵆康を朝廷に推薦したときに「與山巨源絶交書」(山巨源に与える絶交書)を突きつけられた。しかし、嵆康の刑死の際には後に残す息子の行く末を託されたことからみても、彼らの友情は変わらなかったものと思われる。
曹爽の台頭により隠棲するが、曹爽が司馬懿のクーデターで粛清されると再び出仕。
264年、司馬昭が鍾会の謀反鎮圧のため洛陽を離れると、山濤を行軍司馬に任じ、鄴の警護をさせた。簒奪を目前に控えた司馬昭は、曹氏一族を鄴に軟禁していた。山濤はその監視を任されたのである。
西晋代になって吏部尚書、太子少傅を歴任するなど栄達し、79歳のとき司徒になった。また、鍾会の讒言により殺された、嵆康の遺児である嵆紹らを推挙している。