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山崎 俊家(やまざき としいえ、1617年(元和3年) - 1651年12月8日(慶安4年10月26日))は讃岐国丸亀藩の第2代藩主。父は初代藩主・山崎家治。母は池田長吉の養女。正室は稲葉一通の娘。官位は従五位下。志摩守。
1648年3月、父・家治の死により同年6月14日に家督を継いで藩主となった。このとき、弟の山崎勝政に1000石を分与したが、翌年に勝政が死去したため、その所領を再び吸収している。1649年、丸亀城の石垣・堀などの修築に尽力した。
1651年10月26日に丸亀にて死去し、家督は子の山崎治頼が継いだ。法号は興源院殿霊泉瑞覚大居士。墓所は高野山弥谷寺。