丸亀城
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丸亀城天守 | |
通称 |
亀山城、蓬莱城 |
城郭構造 |
輪郭式平山城 |
天守構造 |
独立式層塔型 |
築城主 |
奈良元安 |
築城年 |
室町初期 |
主な改修者 |
生駒親正、京極高和 |
主な城主 |
生駒氏、京極氏 |
廃城年 |
1871年 |
遺構 |
現存天守・門・長屋・番所 |
丸亀城(まるがめじょう)は讃岐国(現在の香川県丸亀市)にある城。別名:亀山城、蓬莱城。
目次 |
[編集] 概要
日本国内に現存する天守(12城)のうちの一つである。 城の形式は輪郭式平山城。丸亀市街地の南部に位置する亀山(標高66m)を利用し、日本一高い60mの石垣が扇の勾配と云われる手法で組まれているのが特徴的である。縄張りはほぼ四角形で亀山の廻りは堀(内堀)に囲まれている。
城全域は国の史跡に指定されており亀山公園となっている。天守のほかに大手一の門・大手二の門・御殿表門・番所・長屋が現存しており、天守・大手一の門・大手二の門は国の重要文化財に指定されている。外堀は明治頃まで周回(北・西側は県道33号線付近、東は労災病院前付近)しており、丸亀十一師団、裁判所や小・中学校などがあった。琴平参宮電鉄の路線延長とその後の廃線や旧国道11号(県道33号線)の整備などにより、年とともに減少し、一部残されていた南側(丸亀高校の南側)の箇所も今は埋め立てられ、外濠緑道公園として整備されている。
2001年に、歌手のさだまさしが「城のある町」という丸亀城をモチーフにした曲を発表、注目を浴びた。
2004年4月1日(以後7年間募集予定)より、丸亀市では「隅櫓・多聞」の復元を目指し、これらの建物が完全復元できる古写真を1,000万円の懸賞金を掛けて収集している。
[編集] 沿革
- 室町時代初期、管領・細川頼之の重臣の奈良元安が亀山に砦を築く。
- 慶長2年(1597年)豊臣政権の時代、生駒親正が讃岐17万石を与えられ高松城を本城とし、亀山に支城を築く。
- 慶長7年(1602年)6年の歳月を要し、ほぼ現在の城郭が完成。
- 元和元年(1615年)一国一城令により破却の危機にさらされるが、時の藩主・生駒正俊は要所要所を樹木で覆い隠し立ち入りを厳しく制限。城を破却から守った。
- 寛永17年(1640年)生駒氏、お家騒動(生駒騒動)のため出羽国矢島(現・秋田県由利本荘市)に転封となる。
- 寛永18年(1641年)山崎家治が肥後国富岡(現・熊本県天草郡苓北町)より5万石で入封。丸亀藩が立藩。
- 寛永19年(1642年)城の改修に着手。
- 万治元年(1658年)山崎氏、3代で断絶し改易となる。代わって播磨国龍野(現・兵庫県たつの市)より京極高和が6万石で入封。以後、明治時代まで京極氏の居城となる。
- 万治3年(1660年)現在の3層3階の天守が完成。
- 延宝元年(1673年)32年の歳月を要し大改修が完了。現存する石垣の大半はこの改修の際に完成したものである。
- 明治2年(1869年)三の丸の戌亥櫓が火災により焼失。
- 明治6年(1873年)名東県の広島鎮台第2分営が設置される。
- 明治10年(1877年)現存の建物以外の櫓・城壁等の解体が始まる。
- 大正8年(1919年)丸亀市が山上部を借地し、亀山公園として開設。
- 昭和18年(1943年)天守、国宝に指定される。
- 昭和23年(1948年)外濠の埋め立てが始まる。
- 昭和25年(1950年)天守の解体修理。
- 昭和25年(1950年)第一回の丸亀お城まつりが開催。(同年の「解体修理」記念行事)
- 昭和26年(1951年)文化財保護法制定により天守は重要文化財となる。
- 昭和28年(1953年)3月31日に国指定史跡となる。
- 昭和32年(1957年)大手一の門・大手二の門が国の重要文化財に指定される。
- 平成9年(1997年)築城400年祭を開催。
- 平成16年(2004年)「丸亀城櫓復元資料収集懸賞事業」開始。(以後7年間)
[編集] 行事
- 丸亀城桜まつり
- 丸亀お城まつり
(行事ではないが冬期は天守が閉鎖されてしまい登閣できないので注意が必要である)
[編集] 関連施設
- 城内
- 丸亀市立資料館 - 丸亀城、京極家などの歴史的資料を展示。
- 亀山動物園
- こどもの国
- 芝生広場 - バレーコートに使用されていた時期がある。
- 城内グラウンド
- 城外
- 外濠緑道公園 - 外堀跡に造られた遊歩道及び小規模な公園。