山口弘封
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山口 弘封(やまぐち ひろくに、1808年(文化5年) - 1869年8月21日(明治2年7月14日))は、常陸牛久藩の第9代藩主。父は第8代藩主・山口弘致(弘封は次男)。正室は松平斉孝の娘。官位は従五位下。伊豆守。但馬守。
幼名は長次郎。長兄が早世していたため、1829年の父の死去によって藩主となる。弘封は藩主に就任した頃から牛久藩の財政は悪化の兆しを見せ始め、天保の飢饉が起こるとその窮乏化は隠せないものとなった。このため、弘封は厳しい倹約令を出し、さらに藩士の借米制を中心とした藩政改革に取り組んだが、あまり効果が臨めなかったため、1839年に弟の山口弘穀に家督を譲って隠居し、1843年12月には剃髪して閑寿斎と称した。1869年7月14日、牛久において病死した。法号は閑山道寿弘封院。