山内忠義
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山内 忠義(やまうち ただよし)は、土佐藩の第二代藩主。山内康豊の長男で、伯父の山内一豊の養嗣子。
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時代 | 安土桃山時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 文禄元年(1592年) | |||
死没 | 寛文4年11月24日(1665年1月10日) | |||
別名 | 国松(幼名) | |||
戒名 | 竹巌院龍山雲公 | |||
官位 | 従四位下、対馬守、侍従兼土佐守 贈従三位 |
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藩 | 土佐土佐藩主 | |||
氏族 | 山内氏 | |||
父母 | 父:山内康豊、母:長井利直の娘(水野氏とも) 養父:山内一豊 |
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兄弟 | 弟:山内政豊、深尾重昌、山内一唯 姉:与子 妹:郷 |
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妻 | 正室:松平定勝の娘(徳川家康の養女)・光照院(阿姫) 側室:園地宗朝の娘 |
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子 | 5男4女(山内忠豊、山内忠直、山内一安、山内之豊) |
文禄元年(1592年)、掛川城にて生まれた。一豊に嗣子ができなかったため、慶長8年(1603年)にその養嗣子となり、徳川家康・秀忠に拝謁する。このとき、家康から松平姓を下賜された。同10年(1605年)の一豊の死後、家督を相続する。しかし幼少のため、実父の康豊の補佐を受けた。
慶長15年(1610年)、居城の河内山城の名を高知城と改名した。これは、城に接している鏡川の洪水に度々悩まされて、水害を忌んだためと言われている。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、徳川方に味方して参戦した。この時、預かり人であった毛利勝永が忠義との衆道関係を口実にして脱走するという珍事が起きている。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、暴風雨のために渡海できなかったため、参戦できなかった。
藩政においては、慶長17年(1612年)に法令75条を制定し、村上八兵衛を中心として元和の藩政改革を行なった。寛永8年(1631年)からは野中兼山を登用して寛永の藩政改革を行ない、兼山主導の下で用水路建設や港湾整備、郷士の取立てや新田開発、村役人制度の制定や産業奨励、専売制実施による財政改革から宇和島藩との国境問題解決などを行なって、藩政の基礎を固めた。
兼山の改革は効果も大きかったが、その功績を嫉む一派による讒言と、兼山の改革における領民に対する賦役が重過ぎた事から人々の反発を買い、明暦2年(1656年)7月3日に、忠義が病を理由に子の山内忠豊に家督を譲って隠居すると、兼山は後盾を失って失脚してしまった。
忠義は寛文4年(1665年)11月24日、73歳で死去した。